芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • 文章癖  ――反省として
    僕は去年でいえば、学校の提出論文などで、A4で50枚以上、それとこのブログのアーカイヴスにあるだけの文章を書いた。まあ、結構書いているほうだといえる。少し前までは日記も書いていたこともあるし。
    僕の例を挙げるまでもなく、学生、それも文系学生は、学期末論文をメインにそれなりに文章を書いている。就活ともなれば、それにさらなる負荷がかかることとなる。

    文章を沢山書く人がいても、その中で文章が上手い、下手の差はやはりあるもの。上手ければ、言いたいことを的確に相手に伝えることはもちろん、大したことない内容もそれなりの風格を帯びるものである。僕なりに上手い文章とは、流れ、つまり論理構造が明確なこと。例えば、接続詞を除いても(また無くても)内容がすんなり入ってくる文章である。それと多少、スパイスとなる、レトリックを効果的に使用していること。レトリックは、スパイスであるから、入れすぎも良くない。

    文章を上手くなるのはおそらく容易ではないことだと思われる。僕は、論文を書いているときに、常に下手さ、未熟さに向き合うことになるので、実感していることである。上手くなるには、上手い文章を沢山読み、沢山自分で書くしかないのだろう。
    上手い文章にたどり着く前にここで考えるべきなのは、自分の文章の癖を理解することである。特に癖とは、この場合偏重癖であり、その語への「寵愛」からなる。自分でも多く文章を書き、他人の文章も多く読んでいると、まず気になるのがこの点であり、自分や他人の文章を客観して考え、比較できれば、問題にもアプローチできることになる。

    他の人はマズいので、僕の文章を例に考えてみよう。

    ①「もちろん」を使いたがる。――副詞の例
    もちろん、とは「論ずること勿く」ということで譲歩の形で用いられる。譲歩だが、いっているように、論じるまでもないことであり、内容は一般、平凡なもの、諒解しているものになる。論じるまでもないが、論じてしまうという哀しい性かもしれない。対処法として、「いうまでもなく」「確かに~」「一般には~といわれるが」というような形に変換するか、本当に言うまでもなく切り捨てるかにある。僕のように、ある副詞を多用する傾向にある文は多い。

    ②いき詰まると「つまり」に逃げる。――接続詞の例
    僕は、やたらに重要な接続詞「つまり」を使ってしまう。その重要さは、国語の先生よろしく、「つまり」の後の文に線引いて一通り読めば、骨組みが分かるほどである。だいたい、このような接続詞が乱発されるような文は駄文であろう。僕の場合、困りながら無意識に書いていると、「つまり」の後にまた「つまり」を書いているという、とんでもないこともある。いいたいことがはっきりせずに、内容を無下に「こねて」いるだけである。対処法として、「要するに」「従って」「換言すると」「ゆえに」などといった接続詞を代理するか、ここでも使わないか、という選択肢がある。繰り返すが、前者の方向はゴマカシであって(確かに、文の重要度を変えて起伏をつけてはいる)、駄文へとつながっている。
    他の人でいえば、小学生みたいにやたらと「そして」が多い、また逆接が多い文は典型的な例だろう。往々にして、接続詞の乱発は上でいったような文章の上手さの規準から言って、よろしくない。

    ③並列、追加の表現。――副詞と接続詞の例
    これもこれもある。また、もっとこういうこともある。ということをいいたいとき、「や」「など」を使い、「また」で内容を追加することになる。このような文構造を僕は使いすぎている感がある。文構造は同じでも、「また」を「さらに」「加えて」「そして、~も」と変換しているのである。

    ④「このような」が多い。
    これは、どうあがいても逃れなれていない癖である。前の文を受けて論ずるとき、「このような」「こうした」「こういった」「以上の(ような)」を多く使ってしまう。対処法は、文章の論理構造を変える以外には、「こ」を「そ」に変える、微々たる印象変化くらいしかないのかもしれない。この癖は悩みどころ。

    以下は、癖の典型例。
    ③体言止めや、語順が「奇抜」なもの。
    普通の論文には、やはり体言止めがくると「あれ?」という感じがする。目立たせたりはできるが、スローガン調になることも否めないし、それまでの流れから浮く。使い方は慎重であるべきであろう。また、語順も癖が表れるところ。主語が後ろ過ぎたりすると、これまた浮いた文章になる。

    ⑤点が多すぎる、あるいは少なすぎる。
    点をどのように打つかも人によって、意外に顕著なものになってくる。僕は多分、多すぎるので、くどい点を見直しで消すようにしている(それでもあまり打たない人からはくどいと思う)。ただ、僕のような点打ち屋からは、点が少ない文は、つまっていて見にくい。やはり適正使用が望まれる。

    ⑥一つ一つの文章が独立的。
    接続詞がなく、淡々とした形で文章が並んでいるが、それぞれの意味の繋がりが薄く(見えづらく)、独立している文章は癖というより、駄文になる可能性がある。接続詞が無くていいのは、論理の流れが明確であるときである。よって、繋がりを示す接続詞の無いとき、それが安易な文の並列だと意味がとりづらい。例えば、明らかに理由をいっているのに、「なぜなら」というような接続詞に加え、「~からだ」「~だということだ」という叙述も省いてしまうと、極めて読むのに根気がいることになる。

    このように、文章癖を考えてみると、直ぐに気付くのが、その本質は、語の多用というよりも、同様な、論理の叙述形態に陥っていることにある。例示が好きであれば、追加、並列の語を、譲歩が好きであれば、「確かに」という譲歩と、その後の逆説を多用することになる。もちろん、癖、つまり多用が悪いことはないし、譲歩や逆説を使わないで文章を書くのは不可能である。大事なのは、文章がマンネリ化された論理構造に陥ることなく、弾力のある文章になることを努めることである。この意味で、意味の印象変化や、重要度などの起伏ができる、語のヴァリエーションを獲得することが始めの一歩となる。
    そのためにも、自分の文章癖を客観的に理解することが重要である。
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