芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • アプローチの規準(未完)
     ある主張を読むときに、しばしば気になり、また、このブログでも、時折問題提起をしているのだが、その主張が拠っている、問題へのアプローチの仕方によって、論の方向が二分されるようなことがある。簡単にいうと、比較の対象となるものの中から、同質的なものを拾うか、逆に異質的なものを拾うかが、ある類の言説の中では、割と顕著な方向性を描いている、ということである。
     簡単にここでいう論理構造を定式化してみよう。その主張では、ある二つのものが、同じもの(正確に言えば、共通した、同属的な、などという言葉を補うべきだが、ここでは簡略に言う)と仮定されているときに、二つの間の異質的なものを見つけ、抽出することにより、その反証が行われる、ということである。勿論、その逆もしかりである。
     
     例えば、現代の家族の形態は、普遍的なものである、という言説があるとする。
     ここでは、同質的なものを集積する考え方は、一般的な意識に適合的なものと位置づけることができる。ほとんどの人は、昔から、家族は、血のつながった人々が営む、愛情などで自己規定された集団としてあると思っている。このような考えで表面的に歴史を振り返れば、同質的なものを集めることは簡単である。
     しかし、異質的なものを集めようとする考え方では、例えば、18世紀までのパリではほとんど子供は里子に出されていたということ(バタンデールの報告)や、未開社会の家族構成や婚姻形態が現代と大きく異なっていたということ、現代家族の姿や位置づけなどは、新しく政治権力によってつくられたもの(政治的家父長制など)であるという言説によって、上記の言説を否定しようとする。
     つまり、家族概念と漠然とみなされる社会的事実も、記述の仕方で全く異なった論理的方向性を示しうるのである。家族は普遍的概念とも言いえるし、そうではない、とも言いえる。
     ここで、重要なことを忘れてはならない。この小論で問題にしているものは、アプローチの仕方によって、対象となるものが違った方向へ傾いて記述されていく過程にある仕組み、構造を考えることにあるのであって、その裏にあるだろうイデオロギーや目的、意図など主観的領域には決して立ち入ってはならないということである。なぜ、その方法論がとられたのか、ということなどは、このような一般化された議論では個別に扱えるわけないし、一部的にも扱うならば、そのものの問題提起すら意味のないものになってしまう。説明するまでもないが、アプローチの仕方が異なるのは、著者のイデオロギーなり目的が異なっているということなど、初めから分かりきったことであるからである。要するに、考察対象を見誤るのは致命的な間違いである。また、全てにおいて同質的、あるいは異質的なものを集積するような議論などそうあるわけではない。つまり、現実にある議論は、ものごと同士の同質、異質を程よく扱ったものであることも多い。そのような意味で、筆者の問題関心が有効となるためには、同質的なもの、異質的なものをより集積するに「親和的である」とされる方法論の「理念型」を設定している、という「前提」も忘れてはならないことである。簡単に言えば、実際にあるか、ないかは別として、(あるだろうと仮定される)モデルを想定することにより、そのモデルを現実と照らし合わせて、考察する、ということである。以下の考察では、論の有益、無益は無視するとして、これを踏まえたものではなくてはならない。

     まず、同質的なものが多く取り上げられるような論理構造について考えよう。
     ここでまず挙げられるべきなのは、レヴィ=ストロースが提唱し、人類学をはじめとして後に多くの学問分野に影響をもたらした構造主義であろう。構造主義は、ヨーロッパ文明を頂点とする自民族中心主義を見直す立場から、先進社会に限らず、未開社会などにある現象の構造に注目し、その構造を拾っていく。そうすると、未開社会の野蛮とされるような表象も、ヨーロッパの進んでいるとされる文明にある表象と同じ構造をしていることが見えてくる。つまり、ここでは、共通する意味、機能、因果関係などが見つけられることになる。
    また、構造主義に先行する方法論として、初期社会学者のゲオルク・ジンメルの形式社会学も俎上に上がるものである。ジンメルは、「全ての人間の社会は、内容と形式に区別することが出来る」とし、「社会とは諸個人間の相互作用である、と言い得るならば、この相互作用の諸形式を記述するのが、「社会」を最も狭い、最も本来の意思に解した場合の、社会学の問題ということにな」ることを提唱した。要するに、内容を捨象して、社会化された、対象に共通する(諸相互作用の)形式を分析するのが、形式社会学の方法論である。
     このようなものの考え方を見ると、それは、中身をそぎ落とし、骨組みを浮き彫りにすることによって、対象を考察するという方法であることが分かる。そして、これら方法の要点は、議論の抽象度を高くすることにある。抽象度を高くすることによって、余分なもののトーンを落とし、より包括的な議論を展開することができる。その議論で扱われる内容は、意図的な抽象をしなければ見えてこないものといってもいいだろう。つまり、マクロ的な視点を持って、形式なり構造を見る、ということである。距離を置いて見ることで、差異の部分は主張の弱いものになっていき、同じ部分が目立つようになる印象、と例えてもいいだろう。
    (続く)

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