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  • 社会とは何かについての周辺
     社会学を学んでいく過程で析出された問いについて書いておきたい。ここでは、全く根本的な問題であるが、社会、またそれと個人の関係について。この問題は、社会学そのものであり、社会学者がいればそれだけの考え方があるような非常にひとつの結論を見出しにくいものである。以下では、そのような定義というよりも、前提問題として、どのように社会を仮定し、考察を進めるかという、アプローチについて考えたい。

     そして、ここに挙げるものは社会学上の問題ではあるが、個人的興味という点で私的な問題であり、問題群を整理し、それらの連関を見出し考察を進める、という性格も帯びている。だが、社会と個人に関わる以上、われわれの日常生活から切っても切り離せない広い問題でもある。
    また、断っておくが、社会学的といっても、完全に大社会学者の理論に乗っかって、理論的整合性を目指そうとはしていなく(とはいっても、焦点を当てているデュルケムについては丁寧に考えたい)、あくまでも、一般の人が持つようなイメージや、リアルな日常世界などの要素を鑑みることを重視したい。この意味からも、理論がまとめられた社会学概論的な本などから新しく参照しようとは思わないし、それなので、今ある浅い知識しか参照されていない。


     自分の社会観で、これだけは外せないという要素、考え方を列挙する。

    1.社会を構成するのは諸個人である。しかし、諸個人の総和は社会とはイコールにはならない。

    2.そのイコールにはならない要素にこそ、社会、社会的と呼ばれるものがある。

    3.日常における対面的なコミュニケーションなど、少ない人数間における相互的な関係から社会的なるものは見出せる。これは、ジンメルのような初期社会学者や、アメリカ社会学にも広く共通した見方である。

    4.社会は個人に対して上部的概念だと思うが、絶対的権威性を与えるような見方には賛成しかねる。(後期デュルケムのような、一部からは形而上学的ともいわれるような社会の概念化はやはり問題が残るかと思う。)

    5.社会は実在的、有機体的であるような古典化されたような見方からは離れる。社会の存在は個人の意識においてのみ確認される。つまり、2の要素を実感したときに、それを社会(的)だと思うのであって、個人に外部的、独立的にあり、様態変化しているわけではない。機能要件を考える社会システム論的な機能主義的見地もここから派生して言えるといえる。

    6.根本となる社会的要素は、デュルケムのいうように道徳(力)であると思う。この道徳は、勿論学校の道徳科で扱うようなものではない、より広域的にある、個人意識に外部的に持たれる力である。この道徳とラベルできるものから、さまざまな社会的事実が発生していることは明白であって、これこそデュルケムのいう外部的拘束・規制の機能を第一次的に持つ。人間は、いかなる社会的場面においても、その影響下にある。

    7.個人がまず感じる実質的な規制力というものは、ある個人、集団が及ぼす権力である。権力、権力性は、極めて、日常生活において重要な現象である。このようなある特定のものから発生する力も、道徳力から権威性というものが派生し、それが個人に内面化されていく過程を通して、彼に心的エネルギーが生ずることに端を発する。これが、権力の遂行を助ける。この意味からも、ただの暴力の行使は権力の行使とは違うかもしれない。それは動物においても見られる現象であって、社会的事実として権力を見るならば、例えば、暴力の行使がなされる際に見られる、諸現象に注目すべきである。それはヴェーバーがいうような服従の問題や、権力の行使の結果もたらされた結果などであろう。
     社会学の辞典には、権力は広義には、「社会関係において人間の行動様式を統制する能力」とある。これは限りなく、ここで提示する道徳力の定義に近いし、おきかえても通るほどのものである。上で挙げたデュルケムのいう外部的拘束力の考え方から派生する概念とも一致する。このような浅い考察からも、道徳、権威(ここから生じる敬意、尊敬)、権力はかなり密接な関係にあって、それは非常にここで社会と捉えるもののひとつの具体的内容を示しうる。

    8.デュルケムは、この道徳に関する考察を深化する形で、その源泉を宗教に求めた。このような理論には基本的に賛同しうる。しかし、すべてを宗教的なものから引き出すのには無理があると思う。宗教のモデルを上手く適用することで、ある社会的事実の説明がつくということに要点を置きたい。その意味で、宗教的概念から演繹的に理論を作り出すのには反対。

    9.宗教の問題から出される聖俗概念(または個人の聖性)について。この二分法は現代社会を考える際も重要になってくる。ここでは長くなるので、詳述は避ける。また、聖俗に加えて、遊びの概念を取り入れ、三要素とするような見解もあるが、この考えの大本にあるホイジンガの論文の最初をさらっと最初だけだが読んだ感じでは、大いに疑問であった。

    10.デュルケム社会学を学ぶ上で避けては通れない、集合表象と個人表象(社会的事実は個人に対し外在するか否かに関わる問題)のカテゴリの有効性・無効性、アノミー(社会がより個人化されていく過程で生ずる個人の無規制状態)について。前者の問題については、現代的な視点からすれば無効と判断されるものだろうが、ここには社会行為を捉える上で重要な問題がある。これも長くなるので、この場では問題を挙げるに留まるべきだろう。

    11.社会を見る切り口として、このブログでも、筆者はときに多用する傾向があるが、同質性と異質性というものを設定している。この切り口は、理論的にどこからひっぱってきたというか、多分にリファーしたということはないので、個人的な見解にすぎず、よって弱い理論的構造しか持っていないかもしれない。だが、人の行為を見るとき、なぜ、それらが異なる様相を示すのか、逆に、なぜ同じ様相を示すのか、ということは大いに興味をそそる事実である。それはごく当然のことがらについても、である。これは、心理学、実践的な社会心理学や人間行動学でも主要な関心になっていると思う。また、幾つかある方法論的アプローチによって、それが異質性を集積する、また同質性を集積することに親和的であるように感じるときがある。この問題は、方法論の領域にも及び、バイアスを生じさせているのではないか、ということも個人的に思っている。

     議論が脱中心的になりつつあるので、ここら辺で止めておこう。
     このように整理のために問題を列挙してみると、あるものが、社会、社会的である、というのは、かなり便利な言い方だと実感するばかりだ。この現象は社会的だ、社会化されている、というのは、説明不可能、説明困難なものを前提として、それを隠しながら問題を設定していることにもなっている。ここに挙げた、前提概念や、問題群を出発点にして、考察を深めていきたい。

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