芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
  • calendrier
  • テオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau)について


    パリに行って改めて、見方を変えさせられた画家の一人がテオドール・シャセリオー(1819-1856)である。彼については、ロマン主義と新古典主義の潮流がある19世紀画壇において、両者を統合させた画家、という以上の情報はあまり得てこなく、それまで日本で見た絵も、二主義の折衷的な絵であった。しかし、これだけでは捉えきれない部分が多いことを直に見て痛感した。
    ここでは、彼についての情報を整理してみたいと思う。

    テオドール・シャセリオーは1819年にカリブ海の当時フランス領であった、サント・ドミンゴ島で外交官の息子として誕生する。1830年にアングルの弟子、アモーリー・デュヴァルを介して、11歳にしてアングルのアトリエに入る。1834年にアングルがローマのアカデミー・ド・フランスの院長になりイタリアへ行くまで、そこで学んだ。
    1836年にサロン初出品で三等賞メダルを獲得する。以降、サロンに出品を続け、アングルから引き継いだ新古典主義画風の絵で高い評価を得る。ルーブルにはこの30年代にサロンに出品された絵等がおいてあるが、どれも十代の絵描きが描いたとはどうしても考えられない完成度を持っている。十代前半にそれ相当の絵画技術を習得しており、まさに神童と呼ばれるにふさわしい。下の絵はわずか13歳の時の作品。
    1840年から念願のイタリアへ赴き、アングルと再会するが、そこでは既に両者の方向性は異なっていた。シャセリオーは、特に新古典主義の対抗主義とされるロマン主義の代表画家、ドラクロワから多大な影響を受け、次第にアングルから受け継いだ線的描写とドラクロワから得たロマン主義的な色彩とを融合させる方向へと向かう。
    1846年にはアルジェリアへ赴き、デッサンを重ね、オリエンタリスム傾向を強める。肖像画、神話画題などの宗教画、オリエンタリスム絵画など幅広く作品を手がけ、また壁画制作にみられる大規模な仕事もこなした。裸婦の表現などは特に評価が高い。また、モローの最も尊敬する画家として、影響を与えたことも有名。
    1856年に惜しまれながらも、37歳という若さでパリで病没した。

    以上が、彼のキャリアについてのおおまかな情報である。
    シャセリオーの魅力は、まずは、神童と呼ばれるような、早熟された新古典主義絵画技法。十代前半で描かれた肖像画が、他の大画家の作品と並べて飾られていて、見劣りしないというのはただ驚嘆するばかりである。そして、肖像画を中心とする30年代、40年代最初期の絵画は、正統なアングル主義を受け継いでおり、アングル門下でも傑出した魅力を持っている。1834年にアングルとともにイタリアへ行っていたら、ダヴィッド-アングル-シャセリオーのような新古典主義を強く結ぶ連関ができていただろう、と想像させるほどである。
    次に、一般にいわれる、新古典主義とロマン主義の融合。これは折衷主義といわれる一部いい所取りのような評価とは違う。両者を統合することで、新たな絵画表現を生み、シャセリオー独自の主義を確立する方向性を評価している。40年代からドラクロワの影響を自身の絵画に取り入れていくわけだが、そこにはやはり試行錯誤というか、揺れ動きというものが見て取れると思う。未だに見ていない作品も多くあるので強くはいえないが、アラブの騎兵を描いたようなオリエンタリスム絵画では、ドラクロワ的要素が多く取りいれられ、まったくロマン主義絵画といってよいものだが、逆に裸体表現では、50年代に入っても新古典主義的風合いを意外に保持している。このように画題や時期などにより、画風は一定せず、新古典主義、ロマン主義の両方を行き来しながら融合を進めていたというような印象を受ける。おそらく、このような過程で、アングル主義を根底に持ちながら、ロマン主義をどのように昇華できるか、というものがシャセリオーにはあったと推測するが、それをなしとげるには、あまりにも早すぎる死だった。




    スポンサーサイト
    コメント
    この記事へのコメント
    コメントを投稿する
    URL:
    Comment:
    Pass:
    秘密: 管理者にだけ表示を許可する
     
    トラックバック
    この記事のトラックバックURL
    この記事へのトラックバック