芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • 同質性に強調される異質性
    改めて感じるのは、二者間で生じているある差異、もしくは断絶は、その二者が、ある部面において共有する同質性があるからこそ強調される(より意識化される)のではないか、という問いである。
    これは、ミクロレヴェルでの経験にも適用されるだろうが、現在各地で生じている国家、民族間の摩擦、軋轢等のマクロレヴェルの事象に当てはめてみたときにより考えさせるところがあると思う。

    アジアに絞っていえば、日本と近隣諸国との意識レヴェルでの断絶は戦後60年を迎えても顕著なものがある。勿論、それだけの歴史的な理由があることは間違いないが、ここでは敢えて、上で掲げた問いに沿ってこの問題群を考えたい。
    東アジア諸国の民族を人種として捉えてみれば、モンゴロイドということで統一されており、肌、髪、目の色などの身体的特徴と、文字、宗教などの文化的特徴を共有しているところが大きい。つまり、日本人と、他の東アジア圏人は、日本人と西欧人に比べて、同質性の領域を多く持っていることになる。
    しかし、日本が一番に外交問題を持っているのは、こうした東アジア諸国であり、その断絶は一朝一夕では解決不可能の根深いものがある。

    この状態と比べてもらいたいのが、日本とアメリカ、ヨーロッパとの関係である。
    数多くの兵士を殺傷され、本土には原子爆弾までも落とされ非戦闘員まで犠牲を拡大したアメリカに対しては、ほとんど対東アジア諸国関係のようなものは問題になってこない。終戦直後のマッカーサー人気などは、まさにこのことを異常に早い段階から示唆する。しかも、第二次大戦の被害ということに加え、アメリカは帝国陸海軍誕生から仮想敵国の一つであった歴史的事実にもかかわらずである。なにはともあれ、アメリカは憎むべき第一の敵国から、第一の友好国になった。
    その他のヨーロッパ諸国も、東アジア諸国との例は見出せない。古くに遡れば、日露戦争を戦った帝政ロシアとも、比較的早く友好関係を取り戻していたことも付言に値する。

    では何故このような状況が生まれてきたのか。
    第一の要因は、政治外交上の理由であり、それは国家間の戦略が大いに関係している。ここで考察を進めようとしている認識レヴェルの次元とは比べものにならないほど大きな要因であろう。
    だが、同質的にカテゴライズされるものの中の、異質性を示す事実が、意識レヴェルでの断絶を助長するという作用もあるのではないか、ということが本小論の本旨である。

    同じような姿態をしているものが、自分のものとは全く違う、意味不明な言語を話し、西洋的近代化された様式とも違った、あやしい生活様式を持っている。この現前の事実に、(彼らとのはっきりとした差異化を求めるがゆえに)人はより強い異質性を自己の認識に、持ち込むのではないか。
    例えばアジア人と西洋人をモデルとして考える場合、こうした認識とは離れた認識をするのだと考えられる。両者は、見かけも文化も全く異なっていることをもはや自明なこととして、対象を認識できる。この異質性が自明なもの、予測可能なものとして諒解されている状態においては、新たに経験される異質性は、前段階の他者認識に対して適合的に認識される。さらに往々にして、その異質性は、近代的価値基準から見ると、一般化されていることが多い。

    この同質性が多少なりともある領域に生まれる、決定的な異質性が認識に及ぼす影響は、包括的に捉えると、美学的な問題をも有している。同質的なもので共有される中に、それとは異なったパターンのものが侵入してきた場合、その異質的なものが、それ自体正常なものであっても、人はそれに強いグロテスクさを感じるだろう。
    このような同質的なもの、統一的なもの同士を前提にものをカテゴライズし、対象をより認識しやすいように思考する方向性は、おそらく、進化論的認識心理学などの分野で論じられるような、そのように世界を自分の把握できるように再構成することができる思考を持った者がより生存しやすかった、という進化論的アプローチと関連してくるだろうし、ここで考えるような一種の思考パターンは、人類の根本的な思考要素を占めているのだと考えられる。

    以上考察してきた、アンビヴァレンスな意識に対する問いは、残念ながら、満足に実証的結論を導き出すには全く至っていない。問いは問いのまま終わっているし、もしかしたら、このようにマクロ的な歴史問題に、筆者の問いを当てはめて考えること自体、有効性に欠けているかもしれないし、この問いのモデルだけにおわらない諸要素は多くある。
    だが、一例として、アジアの国家間的、民族的問題が、ただ単に政治学的、地政学的アプローチでは取り扱えない領域に及んでいるからこそ、それは政治レヴェルでは簡単に解決しないのだと思うし、それだからこそ、認識レヴェルでの一定の純度を持った実証的なアプローチが意味を持ってくる。
    いずれにせよ、現前の同質的領域と異質的領域のインタラクションが、人の認識にどのような影響を持つのか、ということは興味深い問題だし、それを表象する経験は誰もが持っているのだと思う。
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