芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • 写真と写真のような絵
     写真のように上手い、写真と区別がつかない、とは良くリアルに仕上げられた絵に向けられる言葉だ。これが褒めことばのときは、まあ、画家の技術を評価しているのかと納得ができる。しかし、どうも諒解がいかないのが、写真があるんだから、写真で十分では?、とか、写真みたいな絵はつまらない、写真じゃなくて絵なのだから、もっと絵らしく描いたら?、とかいうようなことば(もしくは意識)である。
     別に周りに、このような意見を直接いう人が現にいなくても、少なからず、似たようなことを耳にした記憶がある方も多いだろう。ここでは、このようなある層で持たれるステレオタイプにでくわしたときに、きちんと反論できるように、違う立場の意見を整理しておこう。それによって、絵と写真との差異関係も考えられると思う。

     まず、根本的に、表現方法・形態が違うものを、同列に扱うことは無理があるということである。根本的なことなので、これをいえばひとことで済むが、ともすれば意見の断絶を確認するだけなので、紙面はさきたくない。風景を撮った写真を、引き伸ばして金縁の額にいれて、写真のように上手い絵の横に飾れるか、否か、を考えてもいいし、両者の表面なり断面なりを綿密に見比べてみてもいいだろう。両者には大きく分けて、構成要素的、役割機能的な差異が確実に認められる。
     第二に、これがここで一番いいたいことなのだが、写真のような絵は、往々にして写真のように、現実、真実をそのままに写し取ってはいないということだ。印象派以前の、写真のように現実的な絵を描く画家は、野外で制作することはあまりしなかった。部分的なデッサンを、アトリエで組み合わせて、場面を自分で構成していたのである。ある場面でいわれることだが、絵画における、写実主義は写真主義ではないということにこれは集約される(お世話になったことのある近代美術専攻の教授によると、写実主義と訳される、レアリスムの語源は「レール」=「現実の」ということで、対象をそのまま写すという意味はそもそもないらしい)。
     これは、絵は、自ら世界を構成しえるという、非常に可能性を秘めた利点を持っていることである。例えば、幾つかの写真は、絵としては、つまり絵画的構図法を適用すれば、絵と比べられるものとして通用するものではないといえよう。逆はあっても、写真に写されたものを動かして、あるいは消して、構図的にバランスを持ったものにしようとすることはできない(勿論、「加工された画像」にはなろうが、それは本来的な写真ではなかろう)。写真において構図を絵的に、完全に作者の意図通りにするのは、苦労してその場にたどりつくか、自分でものの配置を構成するか、になる。だが、もしこのようなことをしても、絵に比べれば、断然、裁量の幅はなくなるのは明白である。それは、絵が主として持つ、第一次的な表現性に関わる問題とでもいえるかと思う。このようなことは、あまり詳しく言語化してみても仕方ない。絵は、対象を、自分なりに解釈して、再構成して、または対象を自らの意識の中に作り出して、それを数え切れないほどの方法を用いて表現できるのである。つまり、絵と写真を同列に扱う立場から考えれば、「写真らしく」も「絵らしく」も表現可能であり、それらは互いに対象が解釈・再構成された唯一の結果である。
     また、より包括的に捉えるならば、「芸術はもっとも美しい嘘である」というドビュッシーのことばを考えてみると良いだろう。この言葉には、芸術作品の本質ともいうべきものが含まれている。これを踏まえれば、絵、写真と現実世界との関係、位置づけが見えてくるだろうし、芸術と捉えられた次元の写真は、必ずしも真実の姿を写したものではない、またそうである必要はないことは諒解される。

     最後に付言しておきたいことは、この文章を読んだ方の中に、筆者が、絵と写真を可能な限り差別化して、絵に優位性を過分に与えているように感じる人がいるかもしれないが、それは読み違いであるということである。冒頭で示したが、筆者は、「写実的」といわれる非常に高度な技術を以ってして描かれる絵は、写真がある現代では、芸術的価値があまりないのではないか、というような誰かが率直に思うような意見の中にある問題を考え、「写真のような絵」の意味を再考しよう、ということ述べたいだけである。最初に定義を与えておくべきであったが、この意味で、「写真のような」にある「写真」は、現実のものがレンズを通して見たままに記録保存されたもの、というような消極的な意味を与えられた表現形態としてしか考えられていない段階での「写真」である。筆者は、勿論、このような意味ではない写真の意味を知っているし、このことを念頭に置けば、この小論で取り扱っているステレオタイプは、絵、写真両方の芸術的意味を矮小化して捉えていることがはっきりと見えてくるのである。
     ここまで述べれば十分だろう。互いに交流することはあるかもしれないが、確かに絵と写真は別のレヴェルに位置していることが納得されると思う。「写真のような絵」は、「写真」のように現実世界そのままであるように見せることだけに意味があるのではないし、そこだけに意味が生じるのではないのである。
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