芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • 死についての小論考
    最近、社会においても死が焦点化されることが多かったようだし、個人的にも死について考えることがあったのでここで少し死についての考えを示しておきたい。

    一般的に、死への恐怖は、自分が死んだ後も、それとはまったく関係なしに世界が進んでいくことへの恐怖だと認識される。確かに、明確にこのように意識している者は少ないかもしれないが、根源的には正しいといえよう。死の恐怖で、肉体的な苦痛への恐怖を挙げるとしたら、それは死に直面した人が感じるものであって、一般の人が感じる死の恐怖とは別次元のものである。

    さて、人が死を対象化するのは、大きく分けて、ある人、ある存在が消えたとき、また、ここでは詳しくは語らないが、自分の死が予測できるときの二つである。
    前者の、ある存在が生をやめたとき、往々にして、主体には悲しみという感情が伴う。言うまでもなく、それは親しさの度合いによって、左右されるわけである。
    そこには、多分に、喪失感が介入する。その存在は、唯一無二の存在であり、いったん死んでしまえば、取り返しのつきようがないということである。この意味で、ある生命、存在はかけがえのない大切なものである、という言説が有効性をもって立ち現れてくる。人だろうが動物だろうが、死んでしまえば、それを受け入れざるを得ない。たとえクローンが作れたとしても、正常な感覚からすれば受け入れがたいのである。

    しかし、命の重みは地球よりも重い、といったこの種のレトリックの空虚さは、現代社会を生きるものならほとんど誰でも知っている。高度情報化された社会での、ある個人がもつ情報の中では、何百、何万もの死がある。われわれは、これらひとつひとつに、いちいち立ち止まって悲しんではいられない。それらの死に悲しみを示さなかったとして、だれがその人を薄情な人だと責めることができるのか。
    もうここでは、死は非日常の特別化された出来事ではない。「またどこかで人が死んだんだって… 殺されたんだって…」というような認識でしかない。
    情報化社会以前にも、ある個人の外の世界では、関知し得ない多くの死があったわけであるが、現代では、それが逐一拾われていく(そして事件性を帯びない無数の死がその下に広がっている)。そして、死についての、二分化した意識(あるときは酷く悲しみ、またあるときはなんとも思わない)を各人に強いる。そこの二分化された意識の境界で、われわれは死を捉えていくほかない。矛盾した感情に疑問を感じるか、なんとも思わないか、ある死を経験することのよって意識が変わるか、変わらないか。多くの死がある中で、各人の分岐点もそれなりにあることだろう。

    最後にいっておくが、親しいものの死も、時間とともに、客観的に考えることになるし、それは乗り越えられるべき事実であろう。その死は、「悲しみ、過去の愛情を呈示すべき事実として」、よりも、「それによって、自己の考え方、生き方を反省すべき事実として」、重要性を持っているように思えるのである。
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