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芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • ジェーン・オースティン 『マンスフィールド・パーク』
    ネタばれあり感想です。
    オースティンらしくというべきか、前半までは各登場人物や社交を中心にダラダラと描写を続けており、退屈ではある。
    物語が動き出すのは中盤以降、素人劇の企画の場面からであり、ここから終盤のヘンリー・クロフォードの主人公ファニーへの求婚、エドマンド・バートラムのメアリー・クロフォードへの恋/葛藤が物語を転回する。
    特に、ヘンリー・クロフォードのファニーへの求婚の場面からは、両者のやりとり、感情の往来がめまぐるしく、前半の退屈さとは打って変わって面白くなる。浮気性と思われていたヘンリー・クロフォードだが、実直さや洗練され紳士然とした態度がクローズアップされ、ファニーが彼の良さに気付いていく進行では、ヘンリーとの身分違いの婚約も十分にありえるものとして物語が進んでいく。焦点化されるのは、ファニーの浮気など許さない道徳心、エドマンドへの隠された恋慕であるが、ファニーはどうしても(というか何故か)ヘンリーを認められない。
    もし、ヘンリーとの結婚を選択していたら、『高慢と偏見』と通底したテーマとして見ることができた。つまり、ファニーはヘンリーを上辺だけしか見ておらず切り捨てていたがやがて彼の真の姿を発見する、逆にヘンリーは身分の低いファニーに本質的な道徳心や人間性の素晴らしさを発見する、という人間の「高慢と偏見」を乗り越えた結論になりえた。確かに、より難しいと見られる、ヘンリー側のファニーへの求婚は達成されたのだから、あとはより簡単なファニー側の承認だけでこのテーマは美しく描かれたはずである。
    しかし、物語はこの結論を厳然と「許さない」。あれだけ騎士のように清廉に熱烈に描かれていたヘンリーはものの数行でもとの堕落した姿が暴かれて退場させられ、身分の低く何のとりえのないファニーに好意を持ち友人としてサポートを続けていた妹のメアリーも真の心根はなかった女性として描かれる。つまりは、ファニーはずっと「正しかった」ということであって、彼女のエドマンドへの隠された恋慕が真の愛情として成就する、ということになる。
    オースティンのクロフォード兄妹の持ち上げ振りと、その後の切り捨てはすさまじいものがあり、この兄妹ほかファニーが悪徳とみるものは物語の最終盤でどんどんと断罪されていくのは独善すら感じさせる。

    さて、道徳的テーマ性が強いとされる本作だが、ファニーは道徳の使徒なのか?
    ファニーは、『高慢と偏見』のエリザベスや『エマ』のエマのような確固とした心情や意思をもっていない、無個性で流されやすいものとして描写されている。この点は異質であり、読者はいまいちファニーをとらえきれない(※シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』も貧しい主人公が上流階級に求婚されるテーマを扱うが、個性のありようはかなりの対照をなしている!)。

    ファニーのバックボーンとしては、幼少に貧しい実家から引き取られてきたのでそのような階級が持つ性向や道徳からは切り離されており、(最後まで価値は認めないが)価値観や道徳の基礎は準男爵家の上流階級のものであるはずである(確かに実家への滞在でそのように描かれている)。
    ファニーは自らの境遇や立場を受け入れてまさにシンデレラのように生きていくわけだが、いわばからっぽだったファニーがエドマンドの助けなどがあったとしても、選択を過つことない、道徳的に抜きんでる存在になったというのも疑問に感じる。
    逆に、友人のメアリーの親切や好意をそのまま受け取れない独白や、身分・財産を投げうつような無私な心を示したヘンリーを認めない姿は、人を素直に・多面的に認められない、それこそ最初の自ら認識した立場を忘れた態度に見えてしまう。
    それもあって、前述のオースティンのヒロイン、『高慢と偏見』のエリザベスや『エマ』のエマが偏見や驕りを見せながらも、芯の部分で心の広さ・素直さ、感情の自然な反応・きらめきを見せるのとは異なり、ファニーは従僕さを基礎としながらも内奥ではこのような純粋さを感じ取れない印象が残る。立場が弱いから、身分が低いからという理由付けはあっても、深い部分の理解や価値の信認は見だせいないのである。
    それゆえ、上記の問い=ファニーは道徳的なのかという疑義が生まれるのであり、彼女の存在や正しさを成り立たせるために一斉に下野させられる多くの登場人物にある種のシンパシーすら覚えてしまう。

    『マンスフィールド・パーク』の研究や書評などには詳しくないが、道徳的テーマを筋道よく扱うのであればもっとよいやり方があったあずである。にもかかわらず、オースティンは不可解で回りくどく、諒解感の薄い方法(いってみればかなりのご都合主義を最終盤にぶっこんできた)をあえて取ったように感じる。
    オースティンがほのめかしているようにファニーがヘンリーと結婚する道、またご都合主義で救済されずにファニーがエドマンドとも結ばれない道もあった。
    だが強い必然的結果=ファニーの道徳の勝利として、ファニーは幸せを勝ち取り、悪徳はみな打ち据えられたのだ。ファニーは自分から考えを示し行動することはせず、作者の導きでもって大団円の場にたどり着いている。ファニーはシンデレラのように周囲に無視され隅に追いやられていても、物語の最終的なジョーカーである作者の強い庇護のもとにおかれた聖女であるといえよう。

    このシンデレラを素直に祝福する道徳的物語なのか、異論をとなえるべきなのか、ファニーのありようやコントラストの強い結末は難しい論点を提示している。
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