芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • 本に書き込むということ
    前々から気にかけていたのだが、つい最近考えていたことは、本に書き込みをする人としない人がいるという、すぐにでも観察しうる事実である。
    いうまでもなく、このことは当然のことといわれてしまえば、そうとしかいえない。
    しかし、これがより興味深いのは、両者の対象認識の違いが明瞭で、その間にそれ相当の断絶があるのではないか、ということがいえそうであるからである。

    勿論、ある人はいつも本に書き込む/書き込まない、ということはなく、それはその本の種類によって異なるということは初めに断っておきたい。
    だが、書き込む作業をしたいというときに、それを本に直接するか、ノートに写すか、頭に叩き込んだりするかという違いは、ある本を設定した場合に直に分かる。

    本に書き込みすることは、とても実際的かつ機能的な行為である。こうすることによって重要な場所・内容が、即時的に、視覚的に分かるようになる。
    対して、本に書き込まない場合、ノートをとるような行為はとても時間がかかり、しかもそれを上の場合と同じようなものにするには、さらに努力が要ることは確実である。
    では、なぜ書き込みをしない人は、そのような時間、労力をかけてまで書き込まないのだろうか。

    この小論において一つ提示しておきたいのは、冒頭で述べた、本をどう認識しているかということが、両者の行動を方向付けるのではないか、ということであり、それは二項対立的な問題を帯びている。
    書き込む人は、本をとても道具的、実用的に捉えているようだ。だから、その知を媒介する機能的な道具を、最大限アップグレードすることによって、内容をものにしていこうとする。その行為は、自分だけの意義をもった、「良い本」になるということで意味化されている。
    反対に、書き込むことをためらう人は、本を、「一つの作者を持った、統一的な作品」として、捉えていることが多いのではないか。
    本に書き込みを加えることで、誰もが自分なりに、それから特別なものを享受するような体験を阻害してしまう。これは、一つの作品としての、ある公的な形式を壊すことである。
    だから、本に対して、作者が提示したままの形式を保つことは、美学的意識に繋がっている。本をこのように自分の私的な領域に引き込み、その統一体としての形式を変更することは、芸術作品としての形式を損なうことに他ならない。
    芸術作品に他の人の手を加えることは、その価値を減じてしまうのであって、本の対してのこの意識は、書き込む人とは反対のベクトルを向いているのである。それ故に、ある人は、「書き込まない」、というより、書き込むことは有益なことと分かっていながら、「書き込むことはためらわれる」のである。

    この二つのモデルは、一応の分類をしたということに過ぎなく、書き込む、書き込まないことの動機はもっとミクロ的かもしれない。それは時間がないとか、小さい字が書けないとか、という個人的な諸々の理由である。
    しかし、それを割り引いても、書き込むこと、書き込まないことが持っている意味合いは、上で提示したような意識が多くの場合で妥当しえると思う。それは、二つの認識のレヴェルが、ミクロ的な動的な理由に先立つだろうからである。
    この二つの意識を裏返しに、対象となる本に適用することで、その本の位置づけも分かるだろう事実も、この見解を支える。つまり、教科書、参考書と小説、詩集に書き込もうとする場合、やはり後者には書き込んではいけない、という意識が喚起されるだろうということだ。
    だから、ある人が書き込む本、書き込まない本を並べることで(いうまでもなく、まったく書き込む内容、必要がない本は除外する必要がある)、彼が、それらの本にどのような位置づけをしているかが分かるのである。
    この二つの意識、行動は、個人の文化的背景を捉える上で、より身近な行為であることからも、やはり面白い観察可能な事実であるだろう。
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