芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
  • calendrier
  • 権力と労働
    権力と労働というテーマを考える。
    まず、言っておかなければならないのは、この二つは不可分の関係にあるということである。それは、マルクス主義のような、資本家対プロレタリアートの階級闘争というような狭い意味ではない。社会にある労働の介するところに権力は常時付帯してくるのである。それは過去においても、また官僚制が発展した現代にあっても同様である。労働をするということは、すなわち、権力構造に組み込まれるということを意味している。そこでは、個人、組織は権力を行使され、また行使する立場に置かれるのである。
    このことは、上司-部下の関係や、客-会社の関係、会社-会社の関係などを見れば理解されるだろう。勿論、少人数の同志だけの上下関係がないような組織とも無縁ではない。彼らも、大きな市場の円環の中での権力を無視して活動はできない。もしそれを可能な限り相対的に無視できるものを探すならば、自給自足者か他との接触が薄い個人労働者のような極めて社会性が介在しない労働になってくるだろう。
     ここで、功利主義の立場から、一つの疑問が提起されるかもしれない。権力を行使されるということは、自分が仕事の報酬の代価としてのものであり、それは十分に納得されたことであると。よってそれは権力が否応なしに働いていることとは違うのだと。
     しかし、このような報酬、自己の利得が得られるから仕事をこなすのであって、そこには権力はない、というような姿勢は、言わば、個人のスタンス、価値観以上のものにはなりえない。働いている、働かなくてはいけない、というような姿勢に、自己保存、生存目的ではないところの、社会的な要請、道徳規範が外部的に働いているし、望もうが、望まないかを別として、彼は現に、上司の言いつけ通りに動いているし、それは拒否できない事実である。そして、一旦拒否すれば、その組織のルールに従って、彼は一定の制裁を受けるだろう。そのような、構造の一部として位置づけられていることこそが、まさしく権力の介在を所与に受けているということである。
     権力は、他人から直に行使される権力が分かりやすいだろうが、実際、その他にもさまざまな形で働いている。その最たるものは不可視の権力である。不文律、道徳規範、規則、法、習慣、与えられた身分などである。いちいち説明はしないが、このようなものがどれだけ個人を規制し、ある意に沿った形で個人の行動を決定付けるのかは周知のところである。ただ単に仕事をこなしているのでは駄目なのである。あるときは因習や派閥に従って、そしてまたあるときは、ふさわしい体面を保って行動しなくてはならない。
     このように考えてみると、先ほど、首か、仕事を続けるかという選択のうちで、仕事と報酬をとっているのであって、そこには権力は働いていないのだというような見方を吟味したが、それによって与えられた報酬、肩書きすらもある種の権力が介在する場となっていることも明らかである。報酬、代価は権力を正当化しうるだろうし、それ自体が権力性の指標になりえる。肩書きや地位も同様である。

     最後に注意されなければならない点は、権力に対して、所与の状態で負のイメージ、社会悪といったネガティヴなものとして捉えないことである。権力が働いているということは、別に珍しいことでも何でもないし、それがあるということ自体が正常な状態である。権力が働くからこそ、ある人材は、ある意に沿って働くことを期待、約束される。そして、権力性を意識的だろうが、そうでなかろうが受け入れることで、報酬が約束されるのであり、その個人は組織適合的に、そして社会適合的に活動するのである。さらに権力は、フーコーのいう生の権力(生かす権力)まで及ぶ。それは会社組織とて例外にはならない。
     問題なのは、この権力が、その機能が正常に働く状態を逸脱し、個人を過度に拘束し、個人の独立性をも完全に奪ってしまう病理状態にある。その行きつく先は、不正や犯罪、そして個人の過労死、自殺などである。この例を見れば、権力がいかに個人の意思とは関係なく-自己保存機能とは関係なく、といってもいいだろう-、拘束、規制をもって個人の意識や活動を方向付けるかということが理解されるだろう。
    スポンサーサイト
    コメント
    この記事へのコメント
    コメントを投稿する
    URL:
    Comment:
    Pass:
    秘密: 管理者にだけ表示を許可する
     
    トラックバック
    この記事のトラックバックURL
    この記事へのトラックバック