芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • 社会的調和状態のパラドクスとヴァニティ
    気がつけば、ほぼ半年振りの「随想」です。
    別に倦厭していたわけではなく、時が過ぎるのが早いとため息をつきたくなります。
    社会的な調和状態とはつきつめると何であろうか。
    集団が実質的に、あるいは心理的にでも階統的に秩序立てられていることなのか、個人の行動の幅が広く保たれていること、また行動の壁が可能なかぎり薄いことなのか。
    前者は集団主義や全体論としての、後者は個人主義、自由主義としての調和を指している。前者を突き詰めれば、個人は自律不可能になり、自己のためといいつつも集団のために身を削ることになるし、後者の場合も、個々人の原子化やアノミーを引き起こすことになる。

    問題としてあるのは、もはや個人主義、自由主義は否定できない価値を与えられてしまっていること、そしてこのような状況の中でも、(特にこの国においては)集団主義はまったく恒常的に観察できること、だといえる。
    集団主義を語る際に要点となるのは、集団主義では個人の自己決定権以前に、自律的思考が許されないということだ。嫌ならば集団を抜ければ良いなどという楽観主義が利かないほどに、そこでは外面はもちろん、内面的な支配を受けることになる。集団主義的均衡の破綻の果てに、個人は集団の一手段、機能として用いられ、使い捨てられる。いうまでもないが、その最悪の形は個人の死である。
    人生の中のどの時期を占め、その程度はどのようなものであるかはそれぞれだが、現代にあっても、個人は集団主義的組織に関わらざるを得ない。個人主義が否定できないパラダイムであると同時に、集団主義も人間的特性を鑑みて、実際的に否定できない装置である。この二側面に、社会調和のパラドクスがある。そして、このパラドクスを解消するものが法ということにはなるだろうが、その実効性の限界は人の知るところである。そしてその上部概念に頼ろうとする瞬間、問題は霧散してしまう。
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