芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • バイオグラフィックなコーヒー談義
    人は好みに五月蝿いものである。
    例えば、酒やタバコの種類、銘柄にこだわる人は周りに沢山いることであろう。
    嗜好品の趣味には結構うるさいものである。だが、コーヒーに関してはどうだろうか。少し考えてみたい。

    大人、それも働いている人たちを中心に日常的コーヒーを飲む人は結構いる。また、昨今のカフェブームも考えると、若者もかなりコーヒー志向になってきている。では、コーヒーに身近になっている中で、人々はどのようにコーヒーを対象化し、それと接しているのであろうか、これは興味が尽きない話題である。

    まず、対象化に関わる問題として、コーヒーを飲む人を分類することが基本的な作業になる。コーヒーに砂糖を入れる/入れない、コーヒーに拘りがある/ない、の区別はする必要がある。これは、砂糖を入れるものとしてのコーヒーの対象化が、コーヒーにまだ慣れていない若年層と中間層とコーヒー常飲者との区別に大きく関わってくるからである。
    コーヒー信奉者の取る立場は、往々にして、砂糖を入れない考えでまとまる。つまり、コーヒー+アルファはコーヒーではなく、コーヒーに何かを足した飲み物になり、特にミルクなどを足した場合などは、アレンジドコーヒーの部類になるからである。このアレンジドコーヒーの好みの度合いは各々によっても違うのでここでの談義から外れる。ここでは、何も不純物を入れずに、かなりのハイスタンスを持ち、日常的にコーヒーを飲む人たちを対象に議論しよう。
    さて、この種のコーヒー信奉者は、ブラックコーヒーを飲むわけであるが、その許容範囲はかなりの幅がある。つまり、コーヒーの種類はさまざまであるが、何をコーヒーとするかという認識の問題である。文学の面になるが、コーヒーにはかなりの拘りを持つ名探偵ポワロは、この種の問題を提起する材料を提供している。ポワロは赴く先で、コーヒーをしばしば出されるわけだが、その箇所では決まって、泥水のようで飲めたものではない、というような表現が出てくる。ここからわかる通り、(全てのコーヒーを受容するコーヒー博愛主義者もいるだろうが)往々にしてコーヒー好きは、このコーヒーは不味い、美味しくないと言うことについて、それを美味しいと言うこと以上に専心している、といえるだろう。否定を通して、自分のアイデンティティとなる拠り所を確固なものとして描いていく。砂糖をつけましょうか、と聞かれてきっぱり断る態度、インスタントコーヒーを出されるが口を付けない、もしくは義理で飲む態度、お店である種の固定された銘柄を買い続ける態度、これらにコーヒー好きの信条が現れているのである。この種の行為を通して、彼らは、他との差異化を図り、アイデンティティなるものを獲得しようとしていくわけである。
    ここで一つの疑問がわく。彼らは他との差異化を強調するが、他からの自己承認欲求というものはないのであろうか。いや、あるに違いない。だが、それはかなり難しいことがすぐにわかる。つまり、個人意識の中ではあっても、他との差異を重視している時点で、自分とは趣味の異なる他者に自分を認めてもらうのは難しい上に、コーヒーを仲間で飲むという社会的場面(あるいはそのようなことを話し合う場面)においては、成員間の連帯というものが確認される(同調傾向を伴う)時間であって、否定をともなう自己の嗜好は表に出しにくいからである。程度の差はあれ、認めてもらいたい特殊な嗜好自体が出せないという、ジレンマの状況が作り出されやすくなっているのである。

    以上の考察から、狭許容範囲のコーヒー好きには、一種の自己規律を課す、寡黙なマイノリティであるような側面があることが読み取れる。社会適合的に暮らすならば、過度なコーヒー信奉は邪魔である。しかし、コーヒーにはそれをこえた耽溺性がある。酒やタバコよりも一次的で、パンや菓子よりも趣向が分かれやすいというコーヒー自体の性質にそれは内在する。まとめるなら、それがコーヒーの需要を支えているのであり、何か一種独特な飲み物として認知される要因になっているのだろう。
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