芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • もののゆくえ
    ここ1、2か月、作品をもらいうけたり、差し上げたりすることが何回かあった。
    やはり、「もの」というのは簡単にできるものではない。絵にしても陶芸にしても相当の段階を踏んでできるものだ。もちろん、そうして出来上がったものは、唯一のものだし、それなりの想いや時の刻みがこもっているものといえる。
    つくった側ともらった側の想いや愛着が「もの」を接点にする。ものに対する想いというのは、人に対する感情と違い、独特なものがある。ともあれ、相手が自分のためにくれたものは大切に使っていきたい。

    その反面で、気になるのは自分がつくった作品がどのように相手の意識や生活におかれるのかということである。
    知り合いには何人かに頼まれて、肖像を描いてあげたり、作品をあげたりしたことがある。知らない人、一回きりしか会わないだろう人には、似顔絵という相当軽いかたちだけれど、かなりの人に自分の作品を渡した。
    ほとんどの人が、滅多にない機会に、発見したり思い返す程度のことだと思うし、また気にとめず、捨てたり失くしたりした人も少なからずいることは確かだろう。何年の、何ヶ月の、何日の「寿命」か、どのような扱いを受けるのかは分からないけれど、作品はそれぞれの「人生」がある。しかし、その生みの親であるつくり手は、相手に作品を手渡してからは、それに一切関与できない。

    それぞれの作品について分かるわけではないから、つくったものの総体として、ぼんやりどんな「生活」を送っている、送ったのかな?なんて思うくらいだけど、自分の関与したものが自分の手を離れて、それぞれのもらい手のネットワークの中でどのようにいる、いたのだろう、ということを時たま思うのも不思議な気分である。

    僕が所属するところは、全体で、想像するに年間4ケタ行くくらいの作品を送り出していると思う。だから、作品を沢山贈ったり、売ったりした人は、自分のように「もののゆくえ」にふと思いをめぐらせているかもしれない。
    ただ、陶芸はそのもらい手がその人でなければならないという理由は特にないと思う。前提として実用性があるからである。逆に、肖像だったり、その人だけの要請が成り立つ絵画では、そうはいかない。特に肖像は、つくり手はその人のためだけに仕事をしている。もらい手もそれに応じて一人になる。しかもそれぞれの色や形で仕上げられた作品は、陶芸のような一般や抽象が出てきにくい。何の感情も寄せられないのならば、それは陶芸作品をくるむための新聞紙と変わらない。このような点が、絵画における「もののゆくえ」の想像に、微妙な空気をかもし出している。

    三月の終わりということで、多くの時間を過ごした、もののつくり手たちともお別れということになる。ものは一人でつくっているようだけど、一人ではつくれていないのだと今更ながら思う。そういうことで技術面など以上に、随分と精神面での刺激やサポートをもらったと感じる。
    つくり手とは別れることになるけど、ものは残っている。人ではなくて、ものと刻む、ものとある生活、というのも不思議なものだけど、こんな言葉で言いにくい雰囲気をものは持っているし、そのつくり手と関われたのは良かった。
    「ひとのゆくえ」と「もののゆくえ」にちょっと思いをはせて。




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