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  • ルドン論 その①


    ゼミで、このブログでも何回か取り上げた、オディロン・ルドンについて、軽くですが文章を作って発表しました。テーマもかぶっているし、ゼミだけで消費するのもというのもあるので、2、3回に分けて、ここにも残しておこうと思います。一番参照すべき資料にまだアクセスしていない状況なので、一応まだ推敲文です。
    本当は、19世紀のフランス・アカデミズムを調べたかったのですが、日本語資料がないので、急遽ルドンをテーマとしただけに、ほとんどにわか勉強な上に、美術の小論文を書くのも初めてで、いろいろ不具合な部分があるのは否めません。しかし、自分が興味の持つ画家の知りたい部分について自分なりに資料的に扱え、良い経験になったと思います。
    今回は、ルドンの晩年における、作風の変化の背景、要因を探る、というテーマでの項を載せます。

    ルドンにおける、黒の世界から色彩の世界への転換
     
     オディロン・ルドン(1840‐1916)は、19世紀末から20世紀初頭、印象派などの革新的な美術運動が盛んだった、フランスにおいて活動した画家である。画題は別にするとして、彼の残した作品は大まかに二つに分類することができる。まずは、リトグラフや木炭画によるモノクロームの作品群である。これらには、大きな瞳をかたどったもの、切り取られた子供の頭部、人面をした蜘蛛や花、など独創的で怪奇な作品が多い。次に、花卉や神話などの主題で描かれるパステル、油彩画である。これらは、前者の黒の世界と対照的に、とても色彩豊かな世界観を構築しており、そこには同じ画家がつくった作品とは思えないほどの色彩上での転換がある。
     ここで、注目されるのが、二つの作品群の制作が、画家のキャリアを通じて同時並行的になされたのでも、20代や30代など意欲的な時期にそれらが試みられたということでもない、ということである。ルドンは、それまでのモノクロームの世界から、キャリアも半ばはとうに過ぎた50代になって、きらびやかなパステルの世界へと移行しているのである。それゆえに、画家の50代、つまり1890年代からの特徴的なパステル画は、それ以前には見当たらないものである。ルドンの色彩の世界は、長い画業の試みとして生み出されてきたものではなく、それまでの仕事を糧としながらも短い時間での変化を経て開花したものと見ることができる。
     ルドンが活躍した19世紀のフランスは、印象派やバルビゾン派、象徴派、など従来からのアカデミズム絵画の枠にとらわれない、またそれを壊す流れの只中にあり、それはイギリス、ドイツ、ベルギーなど各国画壇に大きな影響を及ぼしていた。特に、アカデミズムに対抗し、大きな美術史上の潮流をつくり、ルドン自身とも距離が近かった印象派、ポスト印象派の画家たちは、積極的に戸外に出て、身近な現実世界を色鮮やかな絵具で以って描いていた。このような時期に、これとはまったく反対に、ルドンは非現実的かつ内省的で、深い黒の作品を独り生み出し続けていたのである。しばしば言及されるように、印象派の中心人物であるモネとルドンは同じ年に生まれているものの、それぞれのたどった道は対照的である。
     もちろん、肖像画や、風景画などの色を使った作品は、1890年代以前に描かれているものの、それまで職業画家としてのルドンの顔は、まったくリトグラフ画家であったといえる。若い頃から、銅版画家のロドルフ・ブレダンの影響で銅版を試み、1887年にアンリ・ファンタン・ラ・トゥールによりリトグラフの技術を習った以降は、翌年に最初のリトグラフ集『夢のなかで』を刊行した後、『エドガー・ポーに』、『起源』、『ゴヤ頌』など着実なペースでリトグラフ集を出し続け、幾度かの機会に木炭画を発表したりしている。このように画家の40代の仕事は、多くのリトグラフ集と木炭画で占められており、この精力的なモノクロームの世界の創造の後に、一転してパステルや油絵具による多色の世界が完成されたのは、今日から見ても不思議であり、驚くべきことであるが、当時にしてもそうだっただろう。
     この彼の世界観の転換には、第一に、故郷ペイルルバードの喪失がその決定的要因として考えられている。ペイルルバードは、ルドンが生まれてまもなく里子に出された土地であり、彼は15歳に生まれ故郷のボルドーに戻るまで、そこで幼少期を過ごした。この荒涼とした土地での孤独で、「物陰ばかりを探」 す内向的な生活が、後の黒の作品を形作ったことは、研究者の一致した見解であり、画家自身も示唆するところである。
     その後も、この地はルドンにとっては特別な地であり続け、34歳頃から夏はペイルルバード、冬はパリで過ごす生活を始め、ペイルルバードは画家にとって重要な制作の場であった。ルドン自身も、後年「芸術家の打明け話」の中で、「私の幼年時代、青春時代、さらには、なんと私の一生にも多くの影響を及ぼした場所」 と思い起こしている。
    ペイルルバードは、画家の父ベルトランの死後、兄エルンストの所有となったが、エルンストにはペイルルバードには借財の担保として以上の関心がなく、弟オディロンの意思に反し売却しようとする。画家は弁護士をたてるなどして兄と争ったようだが、結局土地の売却は防げなかった。彼にとって、ペイルルバードの喪失がいかに彼にダメージを与えたか、というのは彼の自伝にありありと書かれている。少し長くなるが2箇所から引用しよう。

    (兄によるペイルルバードの売却に際して)
      この大きな取引きで、私の失ったものは、思い出の痕跡以上のものではなく、また紙の上にインクを散らしただけのことです。でありながら、その結果は想像以上に大きく、頭が空になった思いであり、私が実に無駄なことに頭を使っていたことを感じさせました。(中略)私は完全に地面から根を引き抜かれた気がします。

    (「ペイルルバードの喪失について」と題された項目の中で)
      住み慣れたところを去るのは、私の内部で一種の死を意味した。時がたてば他の場所でも生は回復する。しかしそれは別の生で、その未知が怖いのだ。何の事もない引越しが私に与える深い悩みは説明しがたい。私は動かない性質である。新しい住みかに移って、また生活を営み、仕事をはじめるには、多くの時間がかかる、何度かの季節の移り変わりが必要だ。これによってペールルバードの古い家を去ることが、私にとって何であるかがわかってもらえると思う。ここで私の制作の最も熱のこもった、最も自然なものが、眼の前にあらわれたのだ。思い出の他に、自分で自分に驚いたことのすべて、芸術家としての意識がすべてここで生まれたのだ。〔原文改行〕住み慣れた場所を去ることは、死に近づくことだ。だから他の場所で新たにはじめるのがこわい。私の描いた例の悲しい顔は、この故郷で得たものだ。…

     このように、ペイルルバードは、ルドンの絵画的世界の源泉であり、精神的に強い結びつきを示した地であった。そしてその紐帯が途切れたとき、それはルドンにとって「死」を意味するほどのものであった。ルドンは土地が売却された翌年の1898年に、新たな所有者の招待でペイルルバードを訪れたが、その後モーリス・ファブル宛の手紙 に「私の情熱はもうここにありません…」と書いていることからも、それがいかに決定的に画家の心に働いたかは想像に難くないだろう。以降、ルドンはリトグラフから離れ、本格的にパステルによる色彩の世界を探究していくことになる。これを粟津則雄は、「ペイルルバードと密接に結びついていた彼の「黒」が、言わばその呪縛を解かれた」 と表現しているが、ルドンの一連の黒の作品の源であり、制作場所でもあったペイルルバードが他の所有者のものとなったことで、彼のいう「別の生」への転換を、不可逆的にもたらしたといえる。1902年には、「以前のように木炭画を描いてみようとおもいました。でも駄目でした。もう木炭とは決裂してしまったのです」 と書いていることからもそれは顕著である。
     このペイルルバードの喪失は、画家の内面的な変化を物語るものだが、モノクロの世界から、色彩的な世界への移行は、当然ながらペイルルバード売却までに、作品の上で着々と段階を踏んでいたといえる。ルドンは、「石版を作る前に私のしていた木炭素描は、いつもローズ色、茶色、時には青色に染めた紙の上に描いていた。それは後に私が、好んで色の世界にはいり、その楽しみにふけることになる前兆であろう」 と1913年のオランダでの講演会原稿にて述べている。このように、彼は色紙の上に木炭で描いていたことを明かし、それを色の世界へ入る「前兆」と述べている。
     さらに、ロズリーヌ・バクーは、リトグラフや木炭画の裏で制作された風景画の存在を強調している。彼女も引用しているように、ルドンは自分の「芸術の展開にとって最も必要だったもの」 として、現実を丸写しすることを挙げ、これによって、想像の世界の表現へと入り込めたと述懐している。この記述からは、初期コロー風の平たいタッチで描かれた風景画は、黒の時代において、その制作を陰から助け、後の色彩の展開を涵養するものだったと見ることができる。同様に、本江邦夫も、これらの風景画に印象派的要素を見出し、このような筆触分割の発想がなかったら、後の色彩家ルドンは存在し得なかったとしている。
     また、バクーは、1890年に制作され「眼を閉じて」(上図)の重要性を説いている。油彩で描かれた「眼を閉じて」は、同年に制作された同題のリトグラフを、色彩の世界へ移し変えたものであり、彼女は「たんなる肖像画などではなく、それどころか、≪黒≫の展開に組みこまれるべき、高度に象徴的な作品」と評している。また、この作品の左下隅にサインとともに書き入れられた「1890」という制作年も、この作品の重要性と意義を強調している、と述べている。これ以降、リトグラフ作品をパステル作品に置き換えることや、多色リトグラフ作品を制作するようになり、色彩は確実に画家の関心の広い部分を占めるようになっていった。この意味で、バクーの指摘するように、「眼を閉じて」の作品の位置づけや、1890年という制作年は意味深いものである。
     このように見てくると、表面的には、初老に至っての急激な変化、と捉えやすいルドンの色彩世界への移行は、見方が変わってくるだろう。白黒の作品を発表し続けていた裏側で、ルドンは、木炭素描に使っていた色紙や、ペイルルバードやブルターニュで制作していた風景画により、色彩的なものとのつながりを保っていたし、1890年代からは、リトグラフ作品を色彩化することにより、徐々にだが、確実に色の世界へ導かれていたのである。
     加えて、粟津は、ルドンの色の透明さを支えるものは、光でも線でもなく、黒である、と述べている。このような見方からは、彼の変化が長年の画業の結実したものと捉えることができる。確かに、白と黒を自在に操ることができるということは、色彩的世界に入っても、色価を見事に調整する、ルドンのパステル画に生かされていると感じる。後年に至っても、「黒は最も本質的な色」であり、「媚を売らせることはできない」 と言明するルドンの態度からは、色彩へと活路を見出しながらも、黒の画家として身を立てた、画家の一貫した意思を読み取ることができる。

    ●参考文献
    『私自身に』 オディロン・ルドン 池辺一郎訳 みすず書房,1983
    『オディロン・ルドン 神秘と象徴』 粟津則雄 美術出版社,1984
    『オディロン・ルドン展 夢と神秘の世界へ』 群馬県立近代美術館編集,2001『オディロン・ルドン パステル画』 ロズリーヌ・バクー 本江邦夫訳 美術出版社,1988 

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