芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • 絵を描いていて思うこと
    絵を描いていて何気なく思うのだが、何故、紙を透かしてみて見ると、デッサンの狂いが良く分かるのだろうか。
    正面から見ていて、どこか具合が悪いと感じる。悪い、上手くいっていないと感じとれるのだが、決定的にどことどこを直せばいいのかに迷う。こんなときに、光に当て、線を鏡像にして見ると、恥ずかしいくらいに、狂いがクローズアップされる。

    特に、人物の顔は、ミリ単位で線がずれると、全く別のものになってしまう、とても繊細なデッサンが要求されるものだ。それを確かめるには、模写をしてみれば分かる。定規を使っても違いが修正できないものである。
    そういうことで、上記の現象は人物画において顕著に起るものである。
    例えば、漫画のキャラクターを描くとき、利き手の関係で、どちらかの向きの顔が描けない時がある。こんなときに、利き手で描き易い方の向きの顔を描いて、それをトレースしたりすることがあるように、鏡像を利用することは、幅広く使われてきた古典的技術だといえる。ほとんど、記号化された固定パーツに分けられる漫画顔と違って、リアルな顔はそれこそ、デッサンの狂いに迷い込むとつらいのだが。

    上で挙げたように、おそらく鏡像で違いが明瞭になるのは、利き手の関係で、つまり左右のものの認識レヴェルで起こっているのだが、そう考えると、やはり人間のものの識別力の弱さが露呈されてしまう。線対称で同じ形であるのに、左右の別で、どちらかの違いが認識できなかったり、どちらかが決定的に再現困難に陥ったりしているわけだ。もちろんそのものの中で一応の線対称をつくる正面像であっても、この左右の認識、識別力の違いは生じる。

    一面的な捉え方かもしれないが、絵(線)が描ける、ということの一番の要件は、違いが分かる、ということだと思う。
    あるものが対象を写し取り、これで十分だと感じる。しかし、またあるものから見ればそれは不十分で、似ていない部分がしっかりと分かる。ここには明確に、認識の違いが生じている。例えば、小学生の絵を中学生が見るときに見られる現象、といえば分かり易いだろう。
    しかし、ある程度の力をもった絵画経験者の絵を一般の人が見るときはどうだろうか。おそらく、普通の人の多くが、その絵を「上手い」(良く描けている、自分にはできそうもない、というような意味合いで)と感じるだろう。しかしながら、また別の絵画経験者が見れば、「上手い」とされているその絵は、どこかにデッサンの狂いを抱えた絵なのである。
    つまり、対象と寸分違わず絵を描ける人を一つの極端に、このような認識、識別の力のグラデーションが存在しているわけだ。
    もちろん、対象と違うのは重々承知だが、これを修正できない、という人が自分を含めて大方なのは分かる。だが、やはりこの場合も、それで十分と満足しているよりかは大分ましだとしても、どこが違い、どう直せば対象に近づくか、という認識力が欠けていることには違いがないのだ。

    いうまでもなく、完璧なデッサンをする0歳児を見た人はいないだろうし、このような対象を識別、再現する力を養うのは、繰り返しのデッサンには違いない。
    絵画の基本はデッサン、というような古典言説の価値が失われるものではないことは、アングルやモロー、ミュシャなど多くの画家が残した膨大なデッサンを見れば分かる。ものを線の集まりというよりも、構造で捉えているのだから、にわか画家などにはとても敵うものではない。

    僕は、大学に入ってから、それまでほとんど描かなかった人物画にシフトするようになった。再度いうが、人物の表現がダイレクトに、これまで見てきた人間の識別力の差を嫌というほど分からせてくれるし、それ以上に、千差万別、多種多様な人物を表現するのは面白いからだ。画学生ではないのだが、勉強をおろそかにこの一年ちょっとで3ケタの顔は描いた。一応の描き方というものは身に着けたように思うが、まだまだ「対象と違うのは重々承知だが、これを修正できない」というレヴェルから脱すのは早い。しかし、違いをきちんと理解できたときの快感は、世間でいうところの「難しい数学の問題が解けたとき」に匹敵するものである。あまり良い絵の見方ではないが、同年代の人の絵などを見るとき、いわば「狂いのあら捜し」もしてしまっている。絵を描く人は、自分の絵だけではなく、人の絵のデッサンの狂いなどにも敏感になるのである。

    形を写し取るという力は、どれだけ的確に違いが分かるか、という認識力にある。とはいうものの、この力がほとんど最大化されても、そのレヴェルになれば同じ絵生まれるというわけではない。デッサンに限っても、厳然と、画風というものがある。色彩に映れば、デッサンの幅を超える多様性がある。これがこれまで絵を支え、面白くしてきたものであることは間違いない。自分のデッサン力の限界が見えても、絵が続けられるのはこれらお陰である。それ以上に、人の見方は、「そっくり」に描いても、そんな絵はつまらない、というような残酷なものであったりもする…。

    結論というべきものはない文章になったが、ここで知りたかったことは、何故利き手の違いで、ああもデッサンに不便が生じるのか、その科学的で明確な理由、であった。文型学生には脳や筋肉の仕組みなどまで考えが及ばない。知っている方がいたら教えていただきたいものだ。
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