芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • アイデンティティの保守手順に関する若干の考察
     アイデンティティ(ここでは、社会での役割というような一般化はしていない。また一種の趣味、嗜好のような広義化もしない。)を保つあるいは、確認する必要が生じるとき、多少なりとも、その主体(単数、複数)に、アイデンティティクライシスが起っているときであると見ることができる。もちろん、アイデンティティの確認自体は日常的に行なわれていることではあるが、それが問題化され、主体に強く認識されるのは、事が起ってから、ということである。このとき主体は、自らに課された非‐価値的な像、認識を払拭するため、既得されているアイデンティティをさらに強固なものとするか、さらに別なアイデンティティを獲得して、自己の尊厳を保とうとする。
     このようなアイデンティティを獲得する、あるいは保つ方法には二通りの手順が考えられる。まずは他者(具体的な存在から抽象的な存在でもありえる)との同調、同質を確認する手順、次に他者との差異、異質を確認する手順である。前者は、他者と自己との共通点を見出し、一体感を得ることによって、アイデンティティを強化する方法であり、一定のグループで日常的に行われていることである。戦中のナショナリズムや全体主義は、この最たるものとして位置づけられる。一方後者は、他者と自己との異質点を強く見出すことで、全体に埋没しない自己の位置を確立し、アイデンティティを強化する方法である。
     ここで、多少の考察を与えて直ぐに気づくことは、二通りの手順とはいうものの、両者ともに、基本的な構造は同じであるということである。いってみれば、主観的な判断によっているわけである。どちらとも、異質なものを前提にしているし、アイデンティティのおき場所(内容)は既にあるもので、それを俯瞰するならば、同質的な集団を規定することができる。つまり、他者との一体感を得てアイデンティティを強化するためには、違う他者とはある属性を共有しないということが前提となるし、他者との違いを見つけてそれをアイデンティティの拠り所としても、そのアイデンティティは既にあるもので、極く少数であっても、それを共有する同質集団が(半ば自動的に)設定されてしまう、ということである。
     よって、上記した二手順は、表現の仕方こそ異なれ、実際には構造の面では、ほぼ変わることはない。二つを分かつものは、構造ではなく、社会にある(と一概にいえる)道徳規範とどのように、アイデンティティの内容が関わり、その価値が決まるか、ということに関係しているといえる。つまり、そのアイデンティティに依拠するものが、社会道徳規範に照らし合わせて、正常的(一般的、集合的)であるか外部的(特殊的、分散的、病理的)であるかに、ほとんど二手順の関係は対応する。または、その二分法によって、前述した個人の主観的な判断がなされるともいえる。
     まとめるならば、そのアイデンティティの内容が、社会的に一般的なものであり、なおかつ道徳的に価値を裏打ちされているものであるとき、その内面化の手順は、他者との同調、同質を確認するものに、ほとんど限定されるといっていいだろう。一方、それが、社会的に特殊であり、価値と認められていないものであるとき、内面化の手順は、他者との差異、異質を確認するものが介入する程度が強くなるだろうということである。これは自明なことだが、あるアイデンティティの内容が、社会の道徳規範に対して正常であるとき、それは一般性、集合性を持つので、より多くの社会的価値を獲得している。それゆえ、その道徳規範による判断は、(社会的価値の)量的な規定が、ほとんど前提としてあることになる。逆からいえば、その量的な規定から、道徳規範を導くこともできるということになるが。
     もちろん、アイデンティティの保持は、全てが先ほど述べたような構造を基本的に有しているので、社会的に価値がないと判断されるものにアイデンティティを見出したとしても、その過程が全て他者との差異、異質を確認するものにはならない。その社会的に価値があまり与えられないアイデンティティを保持する小集団の中では、必ずメンバー間で同調、同質を確認する手順が取られている。しかし、アイデンティティの内面化、強化の手順の中に、それだけに終わらず、他者との差異を確認する機会が幅を利かせてくるということである。これは、集団や価値(認識)の閉鎖性、限定性によるところが大きい。この逆に、一般的価値のあるものにアイデンティティを見だしたときも、その価値を他者と共有することによってそれは保たれるのであるが、価値のあるものは、無価値なものを前提するように、それとの乖離を確認することで一層内面化が強められる。
     このように、二つの手順は、実際的には、A:Bではなく、社会の道徳規範による価値判断を主軸にして、A+b:a+Bというような図式として、あることが分かるだろう。いうまでもなく、これはあくまでも図式であり、社会生活の中では、どの内面化の方法も相互作用的、相互交通的に働くのであり、あくまでも社会道徳からの判断により大まかな分類が可能となる、ということである。また、一個人の中で、どちらかの手順のみがとられるということもない。
    説明が抽象的になったので、具体例を考えてみよう。ここでは社会や道徳の面が強調されているので、それと往々にして対面される経済の面と比較してみよう。
     例えば、高給を得て、高い年収を稼ぐことは、一般的に価値があるものと推量できる。ここに、年収一千万円ある者がいるとして、彼が、高給であることにアイデンティティを見出すとき、どのような手順がとられるのだろうか。このような高給取りは現状では、国民のかなりの低割合の人たちであるので、一般的な集団の中では、羨望の目で見られると同時に、ねたみの目で見られるなどして、どちらにせよ結果的には同質性によってアイデンティティは規定されえない。「一般的に価値があると推量できる」内容だとしても、ここでいう高給、高年収とは経済活動上の理想であって、道徳内容ではない。このような高給取りの人が、同調的なアイデンティティを感じられるためには、高年収という結果よりも、勤勉、勤労の結果において高年収を得ている過程にアイデンティティを見出さなければならないだろう。つまり、勤勉、勤労あるいは貯蓄、禁欲などは、怠惰、強欲などに対置される道徳的な価値として社会に確立されているので、ここに価値を見出すことをしなければ、一般的には、高給取りは自己内部に(他との)差異化が要求されるアイデンティティになるということである。例えば、高給取りの過程が、宝くじや株のデイトレードなどであった場合、ほとんど差異化によるアイデンティティ保守過程しか残されていないことも考えればより理解しやすいだろう。あるファンドの代表が逮捕されたとき、(苦労せずにもうけず、)ある程度負けていたら嫌われることもなかった、という発言をしたように記憶しているが、これはまさにこのことを直接に言い表している。
     ここでいいたいこととは、アイデンティティは道徳規範による審判によって、保守手順が規定されるということ、その裏返しとして、道徳規範などと同じように、一般性を持つ価値であっても、それが道徳規範の内容とは異なるもの(生得的欲求、冒険的理想、経済的興味など)である場合、他者との同調、同質を確認する手順はとられにくいということである。冒頭で、ここで想定する他者とは抽象的存在でもあると書いたが、例の場合などは、特に他者を社会、世間などとおいても良い場合だろう。

     ここに興味深い一説がある。たまたま、読んでいた本に書いてあったもので、ベネディクト・アンダーソンのことばである。

    われわれはみな、人々が「ルーツ」を「さがす」にとどまらず、自分たちの「アイデンティティ」を「探索」し「発見」し、あげくの果てにはそれを「失いそうになっている」と絶え間なく口ばしるのを、嫌というほど耳にしている。しかし、かつての魂の住みかを目指して自己の内面へと歩んでいくといえば聞こえはいいが、実はアイデンティティを探索するとは、現実のセンサスや想像上のセンサスに表示されることを目指して、外側へと進んでいくことなのである。(ベネディクト・アンダーソン『比較の亡霊』作品社)

     アンダーソンがいうところのアイデンティティは、より包括的なもので、国民、民族といったような相に関わっているため、ここでは広義に扱うべきではないかもしれないが、アイデンティティを探し、持つことは、より深く自己の内面へと進んでいくというような内省的なものではなく、外部の認識の枠組みに捕捉されようと、「外側へと進んでいく」ものだと述べている。われわれは、往々にして他者と同じは嫌だといい、別なものを求めるが、それは外部的な規定を受入れ、あるラベルをもって認識してもらうことでもある。  
    本稿では、アイデンティティの獲得、保守強化手順を二分法的に扱った。そして、それを道徳規範に対応させることを試みた。ここで問題となるのは、道徳規範というものが、広くつかみにくいこと、そして状況変化的であること、である。いうまでもないが、その内容は、こうだと限定的に与えられていない。われわれは道徳規範なるものを抽象化して想定するしかないのであり、それを捉えるには、帰納法的な、いわば「逆からの規定」が必要となる。その意味でも、アイデンティティとその獲得、保守手順は興味深い現象である。加えて、アイデンティティは上で見たように、外部へと進むこと、でもあるなら、外部に向けて「表明」することでもある。この「表明」という提示行為にも、二方法の分岐点が隠されているだろう。どのように、どこにおいて、誰に対して「表明」されるのか、あるいは「表明」されないままなのか、このようにまだ関数は残されている。
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