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  • ギャグ受容の問題
     大分前になるが、簡単にギャグ(他にしゃれ、冗談、ジョークなどと位置づけられるもので、言語的なものとする)についての諸類型をまとめた。今回は、そのギャグに対する受容や反応・対処についてまとめて、最後に個人的な見解を述べたい。

     受容の段階としては、当然ながら、提起されたギャグを受け入れるか、受け入れないかの二つが考えられる。簡単にまとめれば、前者は、ギャグに対して(善なる)笑いを表したり、面白いなどの評価をしたり、「返し」を行ったりする行為であり、後者は、つまらないという否定や、「スルー」を行う行為とみなすことができる。もちろん、両者共に、一定の価値判断が下されていることに違いない。しかし、ここで重要なのは、提起されたギャグに対して、受容を与えるかするか与えないかによって、そのギャグが果たす機能やおかれる立場、会話の進行などに決定的な差が出るということである。つまり、あるときは、ギャグが円滑油や活性剤の役割を持ち、またあるときは疎外や混乱を生むという風に、受容過程によって、二つの対極へと向かうベクトルを描く。そして、その両極の間には、「ありとあらゆる種類の気まずさ」が漂う。
     また、付言しておかなければならないのは、非受容の範疇にある、非意図的な「スルー」である。これは相手が「気付かなかった」場合に起るもので、ここには価値判断は生じていない。これは主に高次的なギャグにおいて起りうる現象であり、「分かる人しか分からない」という文化人的な領域におけるギャグの宿命かもしれない。

     続いて、反応や対処を考察しよう。
     もちろん、ここでメインとなるものは、受容した場合の反応・対処である。おおまかに分類するならば、それは積極的なものと非積極的なものに分けられる。前者は、そのギャグに対して、ギャグで返すか、「ツッコミ」を入れる行為に限定される。後者はそれ以外の行為全般を指している。この二つのカテゴリを分けるものとは、発言されたギャグが会話の一部としてレスポンスあるいはリファーされるか否か、それがその一言で完結するかしないか、という項に関わっている。
     積極的な反応の例を述べておこう。
     まずは、「ツッコミ」の例を挙げておく。これはほとんど、全てのギャグに対して、即座に考えなしでできるという点で、基本的なレスポンスである。ギャグとは呼べないようなもの、例えば「ふとんがふっとんだ」でも「カレーがかれー」でも何であれ取り敢えずはツッコミは可能である。
    「ふとんがふっとんだんだけど!」
    「湯たんぽにジェット燃料入れてるからだよ!」or「ふとんの中でスーパーサイヤ人になってんじゃねえよ!」
     などなど、無数に「ツッコミ」はでき得る。そして、これからまた会話は広がりうるだろう。しかし、内容はほとんど何でも良いということから、エスプリやウイットに欠けるのは否めない。これと異なり、提起されたギャグの意図を汲み、それにきちんと「返し」を行い「繋ぐ」のには、一層の頭の回転が必要となる。今は日の目をみない元イタリア代表を使った例を以下に挙げる。
    「コラーディは、試合中、水とかじゃくてコーラ飲んでるらしいよ。」
    「そのせいでコラー、って監督に怒られたんでしょ。」
    「そうなんだよ。ディ・バイオは健康にいいバイオ飲料飲んでるのに。」
     以上は、「返し」の例である。ネタをふって、それに軽く返し、また関連した内容に繋げる、という基本的な流れをとっている。上で挙げた、より身近な「カレーはかれー」をとりあげるならば、
    「このカレー、かれー!」
    「君の脳みそ、枯れているね」
    「カレイド・スコープのような華麗なギャグにけちつけるの!?」
    「いや、鰈並みに平たい神経しかないよ」
     ここでは、ひとつの節に絞って、韻を踏むという構造で会話を続けている。
     以上、簡単な例を挙げて、積極的な反応である「ツッコミ」と「返し」を見た。ここでとりあげたのはほんの一例であり、さまざまな技術、シチュエーションでこれらは練られるのである。

     対して非受容反応は、「否定的発言」と「意図的スルー、無視」が基本的に設定される。無視は一番、ギャグそのものを打ち消す行為であり、その分、会話におけるコンフュージョンを生む。原因としては、さまざま考えうるが、主に親密性の欠如や文化的背景の違いによる。ここでは、ギャグは負の作用しかもたらさないので、話者は発言を控えることが、社会関係を取り結ぶ上で最良の策であろう。
     否定的な発言は、お決まりの「つまらない」「さむい」などという慣用句に代表される。無視の段階とは違い、直接反応を見せて、言葉で価値判断を明らかにしていることで、無視よりも混乱は少なくて済み、ある意味で話者は救われているし、あるコンテクストによってはこれが、受容行為になる場合もある。さらにいえば、機転のきかない受け手にとっては、これが唯一の受容・肯定反応ともみなせるかもしれない。しかし、ギャグが建設的な作用をしないという意味では同じ相に属している。

     ここからは、私見になるが、「つまらない」と発言することが、一番その会話をつまらないものにしていることは明らかである。そこで、コミュニケーションは終了し、双方共に気まずさなどの諸々の断絶しか残らない。何らかのレスポンスを行うことが、建設的であり、文化的な会話のあり方といえる。
     平安時代まで遡れば、一定の教養を持つ人は、歌を詠めた。周知の通り、短歌は、掛詞や縁語、折句などの連想的、技巧的な要素と、本歌取り、枕詞、序詞といった形式的な要素が組み合わさった、ことば遊びとしての性格を持ち合わせている。そして、折々の機会に、歌を詠み、詠まれた相手は、返歌を詠んだり、上の句に下の句を付けたりしたものである。また、恋文として技巧をこらした返歌を詠める必要も『源氏物語』などを見るとおり明らかである。このような習慣は、武士の時代に移っても続き、適当な機会に、和歌や漢詩が詠めるということはそれ相応の身分における素質として培われていた。
     もちろん、歌とギャグと同一視するつもりはさらさらないが、コミュニケーションの手段として共通するものの持っていることは否めない。ギャグに適切な返しをすることで、会話に広がりやヴィヴィッドさやを与えることができるし、たとえつまらないギャグでも、それを拾うことで逆に言われたほうが「一本とる」ことも可能である。真性に正真正銘、つまらないギャグに対してわざわざ「つまらない」なんていう必要はないのである。いうまでもないが、この意味で、話者側もクオリティ(これは複数の要素で決まる相対的なものである)を選んで発言しなければならない。「拾われる」ギャグこそ、ギャグである。拾われるべきでないものは、人を楽しませるためのギャグというより、むしろ悪態の方に近く、「興ざめ」なものである。
     確かに、ギャグ、ジョーク、冗談とされるものには、本質的な要素はなく、言語ゲームそのものでもあるが、逆に本質的な要素を持つものを活性化することも可能であり、会話を伴う相互行為関係においては、その扱いは一つの分岐点をなしうるものであろう。
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