芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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    ボヴァリー夫人
    ボヴァリー夫人
    集英社,1990 菅野昭正訳


    『アンナ・カレーニナ』に続いて、ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』を読みました。こちらも集英社全集のものです。
    以下、内容に直接触れて感想を書きます。

    大学のときのフランス語の授業で、このボヴァリー夫人に触れた評論を扱っていて、いつか手に取りたいなと思っていましたが、実際に読むまでに相当な年月が流れてしまいました。
    その評論や講義の影響から、『ボヴァリー夫人』に対しては漠然と退廃的で淫蕩めいた印象を持っていたのですが、実際に読んでみてこの印象がずれていることが分かりました。やはり気になったらその都度読んでみるのが大切です。

    **

    ボヴァリー夫人エンマは、医者でありながらも、向上心に欠け凡庸なシャルルと結婚したことに不満をおぼえ、田舎に留まって夫を支えることに鬱屈として暮らしています。
    侯爵家の夜会に招待されてから、エンマの中に未だ知らなかったロマンチックで魅惑的な世界が広がり、これに対する憧れ・渇望が彼女の中で抑えきれずに増大していきます。この新たな基軸を画する経験は、エンマにとっては、いわばエデンの園のリンゴになっていて、果実の味わいを知ってしまったことで、男性とのロマンスや身の丈に合わない贅沢な散財という深みへとはまっていってしまいます。欲望や自己意識に逆にとらわれて拘束されてしまう人間の弱みをまざまざと見せつけられるかのようです。ここには、普段は良いこととされる、経験してしまうこと、知ってしまうことの負の部分をいやでも感じてしまいます。彼女には道徳や理性がない・弱いのではなく、それを持っても抗しがたいほどの力をヴァーチャルな世界観・欲望が持ってしまうという、アノミー性が悲劇的に描かれています。

    そしてこのつくられた世界、疑似環境というものがいかに人を捉えて離さないかということは、物語の終盤で夫のシャルルにも影を落とします。彼は、エンマとの別離を受け入れ現実世界で生きていくことができず、エンマのいた世界を必死で守り抜こうとし身を落としていきます。「彼女は墓の彼方からすら、彼を堕落させた」という一文がこの状況をまさにいいあてています。さらにシャルルは、エンマの恋人であったレオン、ロドルフの恋文を発見してしまった後、当事者のロドルフと対面するのですが、シャルルは恨みを吐露するどころか、ロドルフになりたい、とさえ感じるのです。これはもう常軌の範囲を逸しており、彼の想いはエンマとの精神的一体を願う信仰のようでもあります。
    終章では、シャルルを担いでいた薬剤師のオメー一家の隆盛とシャルルの堕落が、苦笑を禁じ得ないほどに、象徴的に扱われています。もちろん、このコントラストは、ボヴァリー夫妻の悲劇を際立たせてもいますが、レジオン・ドヌール勲章まで受け絶頂を極めるオメーが、このあと無事に人生を終えることができたのか? という少々怖い想像まで喚起するようでもあります。
    『ボヴァリー夫人』は、同じく悲劇によって身を滅ぼす女性を扱った『アンナ・カレーニナ』のように救いや答えが示されているわけではない分、人間の弱さ・矛盾、欲望の捉えどころのなさが鋭く提示されており、精神や内面性の問題に肉薄する小説であると感じました。上でなぞったように、人の微妙で、アンビバレントな、また背反する感情・行動を上手くまとめており、写実主義文学の代表として語られることにも納得しました。
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    レーピン展開催!
    情報を得るのが遅かったですが、渋谷Bunkamuraで来年夏に近代ロシア美術の巨匠、イリヤ・レーピンの回顧展を開催することがリリースされていました。とてもびっくり。

    国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展
    2012/8/4-10/8
    Bunkamuraザ・ミュージアム

    トレチャコフ美術館で見た作品を再度見ることができるし、むこうで常設展示されていない作品も来るだろうから、今から来年の夏が非常に楽しみです。
    それにしても、ルドン展、ミレイ展、セガンティーニ展と、文化村は非常に良い回顧展を開催しますね。

    日本ではレーピン関連の文献・図録がないに等しいので(本国でも実はあまりない)、本展の図録もかなり期待しています。
    冷凍ワッフル


    ニチレイのチーズクリームワッフル。
    素朴な感じで結構おいしいです。
    4個入りなんだけど、もっと入っていてもいい、と思わせます。
    アンナ・カレーニナ
    長編文学は長らく読んでいませんでしたが、最近、レフ・トルストイの長編小説、アンナ・カレーニナを読みました。
    手に取った訳本は、集英社の世界文学全集のもの(工藤精一郎訳)です(訳本によって人物表記が異なります)。

    タイトルは「アンナ・カレーニナ」となってはいますが、オーソドックスにこのアンナを主軸にして物語が広がっていく、というようにはなっておらず、いくつかの家庭やサークルが場面ごとに描写され、それらによって大きな物語が構成されていく点がまず注目されます。
    人はいいが抜けた面もあるオブロンスキイと妻ドリイの家庭、オブロンスキイの妹のアンナと夫のカレーニンの家庭、カレーニンのもとを離れたアンナと恋人ウロンスキイ、オブロンスキイの友人の地主貴族レーヴィンの家族や田舎世界、そしてこれらの人物が集まる社交界、こういった貴族たちの織りなす場面・やりとりがテンポよく重層的に組み立てられ、彼らの心理や生活状況が読者に染み入るように蓄積されてくる印象を持ちました。
    この中でも焦点化され、意図的に対比させられているのが、アンナ・ウロンスキイの関係と、レーヴィンの暮らす世界です。
    主要登場人物のほとんどが親族・親戚関係となっており、アンナとレーヴィンもドリイの生家であるシチェルバツキイ侯爵家を通じてつながるのですが、この長編中、両者の邂逅はほとんどなく、二人の住む世界が交わることはありません。両者の性格付け、人生の進む方向ともに、陰と陽ともいえる明確なコントラストを描いており、これが両者の人間性や心理構造、ひいては物語の核心を効果的に打ち出すことに成功しています。

    まずアンナですが、上でも書いたようにタイトルにもなりながら、一般の主人公のような魅力や共感なりを感じさせない描写をされており、登場当初は美貌・器量ともに完璧な姿を見せさえするものの、そこからウロンスキイへの恋の深みにどんどんと嵌っていき、精神状態が崩れていく様は悲痛さが漂います。社交界の花、完全無欠の女性から、前途有望な青年将校ウロンスキイの道を誤らせるファム・ファタル、そしてウロンスキイへの愛憎を膨らませ逆に自分がコントロールを失い破滅する女、と逃避行を経るごとに葛藤を呈しながら様相を変えていく姿が印象的です。ただ、悪女、ヒステリー振りに単純に落ち着くことなく、終盤まで、ある種の誠実さや気品をそなえた独立した女性としても描かれていることも添えておきます。
    対して、レーヴィンの方は、地主貴族としてもっぱら農地経営に精を出しており(自らが農民に交じって作業をするまで!)、社交界になじむことができず、純粋で内省的、昔堅気な人物として描かれています。ただし、感情が定まっているかといえばそうではなく、他の登場人物よろしく葛藤や悩みも多い人物です。真面目で信念が強くあることが災いして、かえって猜疑心にとらわれやすい気質が兄や仲間との議論や自問などを通して特徴的に表わされています。こういったところは、感情の赴くままに揺れ行動してしまうアンナや、欲望に率直に生きる友人オブロンスキイとは対照的です。レーヴィンには無信仰という問題があり、彼は、宗教、神、人間の本性、生・存在の意味など奥の深い問題に対し、疑念や諦念を向け、苦悩しますが、兄の死、想い人キティとの結婚、出産などの経験を経て、次第に彼の懐疑主義、虚無主義とは違った思考が沸き上がるのを感じていきます。そして、それまでの章とは断絶された物語を特徴的にしめくくる終章にて、力強く生の意味を噛みしめるに至ります。
    『アンナ・カレーニナ』は読む前はやたらに長くておっくうな印象でしたが、上で述べた場面・関係性の積み重ねがこの終章へと収斂され、悲劇や対立、人間のもろさが繰り返し提示されながらも、最後にレーヴィンを通して素朴ではあるものの確固とした希望や理解が示されるという救いが覆っています。
    物語を深く読み込むのには、トルストイの生い立ちや当時のロシアの社会状況を調べることも必要でしょうが、それを抜きにしても、人間性(あのレーヴィンでさえ、どうすることもできない状況では無意識に神に救いを願ってしまう!)への問いに一石を投じる小説になると思います。

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