芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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    ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 国立新美術館


    ワシントン・ナショナル・ギャラリーの19・20世紀フランス絵画の展覧会です。
    これほどの質・量の作品が貸し出されることはない、というような感じらしいですが、同美術館の大規模改修の機を捉えて、良質の作品がまとまってみられるのは本当にうれしいです。

    混雑を予期して、平日にいったのですが、雨ということもあって、予想よりも落ち着いて見ることができました。展示スペースの広さを活用し、作品が置かれているのも良いと思いました。

    展示内容は、版画作品のセクションを除外すると、印象派以前・周辺、印象派、ポスト印象派、の三つに分かれています。

    印象派前のところでは、クールベ、マネが良いと思いました。特にマネは作品数もあり、それぞれが魅力を持っています。厚塗りで大ぶりな筆の処理で独特な質量感を表現しています。描き込みのバランスが秀逸なのだと思います。静物でも部分的な塗り込みを抑え、全体の調和を考えて仕上げているようです。

    印象派のセクションはメインとなっているだけに、大作もいろいろ集まっていました。
    ドガは、横浜のドガ展でも出展された「落馬した騎手」や、「アイロンをかける女性」(上図)が気になりました。「アイロン~」は中間色の表現に非常に長けた作品で、塗り込みや色の深みのおかげで軽くなっていないところも良いです。きらびやかに色が配置されているわけではないですが、綺麗にまとまった油彩になっています。
    カサットの作品も見どころだと感じました。図版の表紙になっている「青いひじ掛け椅子の少女」は見に行く前から気にかかっていたのですが、実際に見ると印象が変わる作品でした。図版で縮小された全体図を見ると綺麗な作品という感じがしますが、近くで実物を見ると、ソファの処理はかなり荒っぽく、色がキャンヴァス上で混じり合って汚くなっているように見受けられます。けれど遠くから見ると、良い塩梅にソファの色が沈んでアンニュイな少女を引きたてながら落ち着いて発色している印象を得ます。カサットは顔の表現でもそうですが、こういう色の遣い方は考えているなと思います。パステル画などでも上手く表現しています。
    モネ、ルノワールは初期の作品が来ていました。

    ポスト印象派は、2点のスーラ作品が気に入りました。遠くから見渡して点描の効果を楽しむのに加え、近くで見るとどのような色で処理されているのか、を見るのも面白いです。
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    実際的なコミュニケーション論
    人間の社会でのコミュニケーション、関係構築は、つまるところ、特定の社会状況も考慮したとしても、そこに存在する人間に理解可能なかたちで自己呈示するということに尽きると思います。
    ここでいう理解可能性は、個人が高度なかたちで社会化され、その内容を体現できること、加えて、いわゆる人間味や原的コミュニケーション(感情や身体的表現)を感じ取り適切に呈示できること、この2つのカテゴリに整理できると思います。この2つは、社会(心理)学的な要素と行動学・生物学的な要素に対応していますが、両者は独立に作用するものではなく密接に関わっています(親愛表現等の人間味の表現はなくてはならないのですが最終的には社会化面の統制を受けなくてはならないはずです)。

    これらを上手く操作することで、ある社会的場面において、他者を理解し、理解されるという経験が促進されます。ここにおいて重要な点は、「他者を理解する」という主観的な意識だけでは不十分であり、「どのように他者に理解されるか」という印象管理が大きな幅を占めるということです。
    よって、コミュニケーション強者は、少数の分かる人には分かるようなサインを送るのではなく、自分の身体をアイコン化して、だれでも理解可能なかたちでもって自己呈示をすることになります。
    理解可能な幅を多く呈示できるほど、他者との接近・相互行為が図られる、ということであり、広く普く受容されうる自己像を呈示できるという点では、社会化の結晶化というべき高度な技術の発露が見てとれます。

    ここで描いたコミュニケーション強者は、いうまでもなく人間社会を生活する上で非常に高いパワーを持っています。広範なネットワークを持っていて、情報収集力も半端ないわけですし、利用可能な資源を潜在的にでも多く保有しており、相当強力で多くのBATNA(Best Alternative To Negotiated Agreement;その交渉が失敗した場合の次善策)を保持してます。それなので、社会生活上、オールオアナッシングな交渉、独力で活路を見出すような選択をすることからはフリーです。彼の持つ、情報や資源の豊かさ・広範さはさらにコミュニケーションを発達させる正の循環力も持っています。彼の追従者も現れるはずですし、強者同士のコミューンも形成されることでしょう。…向かうところ敵なし、という感じですね(なおかつ資金力もあれば経済社会での成功も…)。

    このように強者になることは、素晴らしい恩恵が享受でき、強力なアイデンティティ構築ができるものなのですが、現代社会ではこんなふうな典型になれる個人はごく少数と思われます。
    高度に社会化されている必要があること、コミュニケーションに膨大な労力を要すること、自己認識・アイデンティティと乖離する可能性、時間の制約、コミュニケーションの性質の変化、上下からのルサンチマンの処理、などなどクリアすべき条件が多すぎるのです。
    特にこの中でも、現代社会におけるコミュニケーションの性質の変化は重要な要素です。ここで論じていると相当長くなってしまうので割愛しますが、ネットを中心としたコミュニケーションへの移行、これに付随する他者との結びつき(認識)の変化などは、上で描いたよう関係形成とは違った様相を見せています。またこれと関係して、さまざまな社会的機能(コミュニケーションそのものも)が外部化されている、というのも大きいです。経済的な力さえあれば、人的なネットワークと同等かそれ以上のBATNAを保有していることを意味するわけですから。

    話が大分広がってしまいましたが、ここでいったことは、人間社会で生きている以上、人間の理解可能なコードを最大限活用できるものがよりベネフィットを得られる、という至極明快なことです。
    併せて、そのコードの理解・体得は、生得的に可能であるものではなく、社会化がキイとなっているということです。
    そして、上で少し列挙したように無数の関数を考慮して、自己呈示していかなくてはならないわけなので、諸個人が彼らなりに与えられた社会状況で限定的にコミュニケーションしている、ということもひとつの興味深い事実であると思います。誰もがコミュニケーションの最大化を図らないという事実がある以上、コミュニケーションとそこから得られる関係は、自己承認の他、必要量以上はコストとしてもとらえなくてはならないということだと思います。
    ある個人におけるアイデンティティ形成・保持におけるコミュニケーションの立ち位置や必要となる質・量は、また別の項で考察できたらと思います。
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