芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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    経済的合理性にもとづいて、ほんの少しでも多く儲ける術が集団においても個人においても実践されている。金を集めるとなると、恐るべき知略が用いられ、徹底的に資本主義のテーゼが遂行される。
    それでは反対に、いざその金をつかうという段はどうなっているのか。少なくとも、そこその企業においては、コストダウン・原価低減が同様に進められているはずである。いうまでもなく、そうではない企業集団や、そうなっていない領域は依然として存在するが。それでは問題をうつし、個人のレヴェルに焦点をあてると、あれだけ徹底化されていた経済的合理性の精神がかげを隠してしまわないだろうか。個別的な事例はここで語るまでもなく各人に経験されていると思う。資本主義社会において、原理的にいえば、個人が金を稼ぐ・使う場面はどちらとも資本主義の精神が働くべきである。しかし、労働に見合わない投資がはばをきかせていることは周知である。
    公式的にいうと、2者関係でのやりとりにおいて貨幣が媒介するということは、そこで等価交換がなされているとみなされなければならない。それが客観的に、計量的に、一般的に示されないとすれば、なんらかの社会的要素がその交換を操っていることになる。たとえばウォーラステインなどが資本主義に対してクリティカルでありシニカルな批判をしているが、なぜに日常でそのように反省的に捉えられることが少ないかというと、各人が労働の段階でも、そして消費の段階でも、不等価な交換原理に捕捉されていると同時に、社会的に呼応しているからであろう。ゆえに、その社会的な側面をうまく論理道具として利用して、日々の「不等価交換」を「等価交換」であると、事なかれ主義的に押し通すことも可能となるのである。交換・分配の「不正」は道徳論的(哲学的)にも、社会学的・心理学的にも扱わなければ理解・記述できないと思われる。
    交換、消費行動は、徹底化された利潤最大化の合理的意思に加えて、それとは異なった社会的、個人的な意思が介在する。消費行動に、ナンセンスやグロテスクさが表象されるのも、その結果の一部を垣間見せるものである。もちろん、資本家・有産階級サイドの大きなパワーは前提とされるものではあるが、個々人の呼応行為も看過するべきではない。貨幣には、個人の意思の表現、エモ―ショナルなものの発現として機能する場合が多々ある。個人に準拠すれば、貨幣の使用ではそれが十分に見てとれる一方、平準化された労働のなかではなかなか姿を認めることは難しい。関連して言えば、消費行動とは対の立場にある、私家的な節約術が、本来的な目的を脱したところにいることを見つけることがままあることも一つの証例になろう。
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    上村松園展 国立近代美術館


    東京展は終了してしまいましたが、決定版、過去最大級と銘打った大回顧展が開催されています。11月からは京都展に移っています。
    近代日本画の展覧会、美術館ではだいたい何作品かは展示されている松園ですが、これだけの良質の完成作を一気に見せられるとまた見方が変わってくる、というような厚み、迫力のある展覧会になっていました。

    会期が短く、それでいて前後期の展示替えがあったりするのがちょっと、というような感じはありましたが、若い時代の作品もあり、完成作品の下絵やデッサン類(序の舞、花がたみなど)も併せて展示してあるなど、内容はかなり満足度の高いものでした。
    やはり、筆の線だけ見ていてもかなり上手いし、絵にかける思いの強さが感じられるほどの作品の完成度はため息ものです。これだけの作品数があって、どれも雑っぽさや遊びの部分がほとんど見られないというのは単純にすごい。あと、筆デッサン時代最強論?をより支持したくなりますね。

    着物を中心として配色も結構気が遣われているのが良くわかります。上の「舞仕度」のような複数人物を配する画面でも同様です。あとは、朱・赤の遣いが特徴的だと思いました。大胆にも使うし、画面をしめるようにも使っています。
    また、本展の構成として、年代における画風・画題の変遷も見てとれるもの鑑賞のポイントになっています。
    図録は良くできていますが、やはり作品の繊細さ、日本画の岩絵の具の発色の綺麗さを見ると実物を時間をかけて見るべきと思わされます(肌の白粉が印刷だと妙に浮いてしまうのもあります)。
    明治大正期の美人画、上方の(女流)画家は注目しているところでもあるので、理解・勉強をすすめていきたいです。