芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
  • calendrier
  • スポンサーサイト
    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。
    --/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
    ベルギー王立美術館展 国立西洋美術館


    ベルギーの首都ブリュッセルにあるベルギー王立美術館の、16世紀フランドル絵画から近代の印象主義、象徴主義絵画、現代美術までの作品を選び、幅広くフランドル、ベルギー美術を紹介する展覧会。
    行く前に、元西美学芸員の先生に、この展覧会に沿ったフランドル、ベルギー美術史を講義してもらったので、とても分かりが良かったです。フランドル絵画に伝統的な、緻密性、幻想性などの背景を勉強することができました。

    フランドル絵画の油彩画のセクションでは、その代名詞的なブリューゲル一族の絵が見所になっています。特に注目されるのが、美術館の至宝であり、日本初公開のピーテル・ブリューゲル〔父〕の「イカロスの堕落」です。大きな人だかりができていて、きちんと見られませんでしたが、画面の構成から、色彩まで、とても綺麗で、物語の世界のような恍惚感があります。
    また、ルーベンス、ファン・ダイクの肖像画に作品が集まっています。僕としては、ルーベンスの勢いのみなぎる絵画よりも、ファン・ダイクの精緻で落ち着きのある絵が好きです。
    最後に、さまざまな画家による、花卉や動物、銀器などの静物画はやはり見事です。
    さらに、これらのフランドル画家の、素描作品が1セクションをさかれてまとめられています。こういう大作の陰にある作品はあまり見られないのでそれを見る良い機会ですね。



    近代絵画のセクションは、フランソワ・ジョセフ・ナヴェスの「砂漠のハガルとイシマエル」から始まります。ナヴェスは新古典主義に属されるベルギーの画家で、パリに出てきてダヴィッドのもとで学んでいます。同作も、均質的な絵肌をつくっていて、その一面の空と砂漠により、さまようハガルとイシマエルの苦痛な姿がクローズアップされます。
    ルイ・ガレ「芸術と自由」(中図)も注目が集まる作品。内面的な高潔さを示すような作品で、ぼろぼろの服を着た男が力強く表現されており、ロマン派的な要素を感じます。ベルギーでは重要な画家のようですが、日本ではほとんど知られていませんね。
    アンリ・レイスは、衣装、調度品の再現度に重点が置かれている作品。しかしそれだけに全体が重くなっている感が見られます。クールベにも多少このような感じになる絵もありますが、それがレイスでは顕著です。

    ベルギー象徴派では、クノップフ、アンソール、デルヴィルなどが来ています。欲を言えば、レオン・フレデリックなども見たかったですが。
    クノップフでは「シューマンを聴きながら」(最上図)という作品がアンソール「ロシア音楽」と並べられて展示されています。描かれた対象が似ているだけに、当時も物議をかもしたそうですが、クノップフでは、ゼミの先生がおっしゃられたように、より内面的なものに焦点が当てられ、アンソールの描いたような、ピアノを聴く女性のいる風景、とは異なった次元にあります。タッチも、中央の女性が細やかな筆致で描かれているのに対し、背景全般は、大胆なタッチで描かれ、対照的であり、それによって目線が女性に焦点化されます。しかし、遠くから見るとそれが調和的に働いて見えます。もう一枚の作品「ジェルメーヌ・ヴィーナーの肖像」は油彩で描かれていますが、パステル的な平面的な塗りで表現されています。しかし細部はかなり気を配られて描かれており、優しさを醸し出す作品です。
    ジャン・デルヴィル「トリスタンとイゾルデ」(下図)、「情念の輪」は、今展の中でもまさに象徴主義、神秘主義的といえる作品。人物の肉体表現も素晴らしいです。





    その他では、テオ・ファン・レイセルベルヘ「読書をする婦人と少女(画家の妻と娘の肖像)」(最下図)が目を引きます。スーラ的点描というのは、個人的にはそれだけで距離感を感じてしまいますが、この作品は、きちんとしたデッサンのもとに、そのものの質・量感にあった点描が施されることで、形象的、色彩的調和がなされています。カミーユ・ピサロ、セガンティーニ、アンジェロ・モルベッリなどに加えて、点描、線描の新しい地平を見られる作品だと思いました。
    ヤーコプ・スミッツの作品は、黒の良さが引き出されています。水彩で描かれていると表記されていますが、水彩でつくったとは思えない厚みのある絵であり、とても感化される作品になりました。
    アルフレッド・ステヴァンスもリアリズムという観点で魅かれる画家。前にもゲント美術館展で見ていますが、今回の作品「アトリエ」も、空間内の表現が上手くできている作品で、光の表現の仕方が見所かなと思います。

    一昨年あたりから近代ベルギー絵画を見る機会が増え、大分、ベルギー美術に親近感を持てるようになりました。今展は、歴史を振り返って、良質のフランドル・ベルギーの美術を俯瞰できる良いチャンスなので、興味のある方は十分満足できる展覧会になっていると思います。






    スポンサーサイト
    クリーブランド美術館展 女性美の肖像 森アーツセンターギャラリー


     アメリカ、オハイオ州にあるクリーブランド美術館の膨大な近代美術コレクションから厳選した約60作品を見せる展覧会。ほとんどが、日本初公開とのこと。
     5章構成で、おおまかに印象派以前、ポスト印象派、ロダンとロッソ、ピカソとその周辺、北ヨーロッパのモダニズムと分けられます。

     やはり自分の興味と重なるのは、印象派と彼らの先駆となった画家を挙げる1章です。
     入ってすぐのクールベの作品、「ロール・ボロー」。夕焼けの空を背景に黒衣の女性が物憂げにこちらを見つめる絵です。クールベの場合、風景画に対し人物画の場合、筆触を抑えた伝統的な肌のつくりをしていますが、この作品は、そのような人物画の中でも、古典主義的手法の強い絵だと思いました。人物の内面的な要素まで引き出すような、雰囲気のある良い絵です。
     ルノワールは、彼の最初期の肖像画と、1890年頃の作品「リンゴ売り」。前者の作品は、彼の画集があったら最初の数枚に挙げられるような作品ですが、やはりエッセンスは感じられるものの、固く、衣装などもより平面的です。解説が指摘するように、いろいろな箇所に応じて塗りが分けられているものの、それらが全体としてあまり調和を生んでいない感じに見受けられました。
     1章の中で、一番の輝きを見せるのが、アンリ・ファンタン=ラトゥール。彼の作品となると、ルーヴルにあるような完成度の高い集団肖像画が想起されますが、今展の作品は、女性の肖像画2点。特に女性の立像と花を描いた、「ルロール夫人」は章の中で一番魅かれました。背景は、ファンタン=ラトゥールに特徴的な、薄く筆触を重ねた、くすんだ焦げ茶系の地をつくっていて、そこに白いドレスの女性を配していますが、この人物は、陰影から、血管に至るまできちんと表現されており、白いドレスの質感も、かすれや盛り上げを使って、見事に表されています。画中の花も、彼が得意としていた画題だけに、それだけで作品になるような、完成されたタッチを持っています。
     また、ジェイムズ・ティソが1点(上図)あり、この作品は印刷で見たことがあっただけに、実物と対面できて良かったです。ティソはロンドンに渡り、その上流階級社会を描いていますが、作品はその優雅さを上手く伝えていますね。今展の「7月、肖像画の見本」は、四連作の中の一つという位置づけのようです。オルセーで見た作品よりも落ち着きのあるつくりで、建物、ソファ、クッション、ドレス、ほろ、などさまざまなものの質感が上手く表現された作品です。
     最後に、ベルト・モリゾの油彩が1点あり、これは久しぶりに見るような、完成度のある、というか「仕上げられた」モリゾの作品でした。草上にドレス姿の女性が休む、という構図は、ルノワールなど近親の画家の作品にも見られる構図。

     2章は印象派後のポスト印象派世代の作品が主です。ここでは、これから外れるような位置づけの、ルドン、セガンティーニが良かったです。
     ルドンはお馴染みの花の絵(下図)。油彩による作品です。イエロー、オーカー系の背景でまとめているというのが全体的な印象ですが、下部には青と赤が用いられており、背景にも3原色を用いています。
     セガンティーニですが、印象派的タッチや線描、点描などの要素をくむ、彼に特徴的なタッチが魅力の画家。「松の木」というタイトルで、松の木1本を中ほどまで描いた作品が来ていますが、一本の木に焦点をあてて、これほど豊かに画面を構成できるのは本当に素晴らしいです。木の表面などは、この彼のタッチが生かされ、柔らかに表現されています。

     その他、ロダンの彫刻を集めた章、スカンジナヴィアやドイツ、ロシアなど北方のヨーロッパ近代絵画を集めた章など、独立的に、趣向の変わった章を設けているのもアクセントになっていました。特に北ヨーロッパのモダニズム画家などは、まったく知らず、新鮮な印象を受けました。

     今回の展覧会では、クリーブランド美術館のほんの一部のコレクションの展示であり、もっと沢山見たい感が残りました。これからも、期待したいところです。また、キャプションは、油彩でもファブリックとカンヴァスというように画材を分けて書いています。両者はどのような違いなのでしょうか、少し気になりました。
     カタログは、論文や解説があまり充実しておらず、版も小さい。しかし値段は普通にする、ということであまり満足していません。もちろん、大きな巡回展というわけではないので納得はしますが、やはり図版は大きなものが良いですね。



    「ハチミツとクローバー」 羽海野チカ


    美術大学を舞台に、そこで生きる若者の生き方や恋愛の上での苦悩・葛藤・奮闘を描いた漫画。最終的には、漫画だけではなく、テレビアニメ、実写映画などと多くの人気を集め、もはやこんなところで感想を書くのは、というほどに普及してしまった作品ですが、久しぶりにヒットした作品ですのでご容赦。因みに、僕が貸してもらって読み始めたのは3巻あたりが発売していた頃かな?と思いますが、そのときはまさかこんなにブレイクするとは思いませんでした。
    少女漫画というカテゴリのものでは、「赤ちゃんと僕」以来かな。とにかく、アクセスの前に、絵柄とストーリーで少女漫画は敬遠してしまいますが、この二つは、主人公も男で、絵柄も乙女チックではなかったので、そういうところでのとっつきやすさはあったと思います。また個人的にも、今作は美術大学を舞台にしているというところも魅力でありました。東京に出てきてから浜美のモデルとなっているムサビにも芸術祭でお邪魔したりしていて、時間と創作意欲を惜しみなく作品につぎ込めるビダイセーにはやはり今でも憧れます。

    [「ハチミツとクローバー」 羽海野チカ]の続きを読む
    おやゆびひめ 絵/牧野鈴子


    おやゆび姫の物語をレコメンドしようというわけではない。いまどき、おやゆび姫を読んで感動しましたとはおさおさいえない。ここでは、その挿絵を手がける牧野鈴子の作品として取り上げている(というわけで、読書のカテゴリには入らないかもしれないが、本としての形態で出されているので、読書コーナーに入れてある)。絵本は子供が読み、見るものだが、絵画作品として見るならば、一作品丸々そのイラストレーターの作品世界をみられるわけなので、絵を描く、楽しむものにとってはとても参考になるものである。

    おやゆび姫は、ネット書店で検索すれば、優に100件はヒットするような作品である。ほとんどが絵本形式なのだろうから、それぞれに挿絵があることになる。この作品もその数ある中の一つである。もっとも有名なのは、いわさきちひろの絵だろうか。

    本との出会いは偶然なもので、病院の待合室で待たされ、何もすることがなかったので、それまで一度も見たことのなかった本棚を見てみたら、この本があったので手にとって見た次第である。
    すでに主題や物語があって、それを絵として表現するという場合、いかにその世界像や意味をヴィジュアルで表せるか、ということが当然ながら重要であり、それが見る側にとっても面白いところだが、この本に関していえば、その点が上手く、「正統に」表せている。例えば、既成概念を壊すことで、新しい世界観を提示することもできるが、この絵本では、おやゆび姫の世界、アンデルセン童話の世界の漠然としたイメージを、より開かせてくれるような調和と幻想性を示しているのである。見開きで、左に文、右に挿絵という構成をとっているが、挿絵だけではなく、文章の周囲を飾る絵の装飾もこれを助けている。

    最初は普通に紙に水彩で描いているのかと思ったが、良く見るとこれはおそらく、画布にジェッソをぬって、アクリルで描いているようである。画面は、彩り豊かに配色されているが、茶系の色で、画面を軽く汚したりして、雰囲気を持たせているところも良いと思った。ところどころ、下塗り(ジェッソ)がはがれているようなところも同じ効果を生んでいる。
    機会があれば、牧野鈴子さんの違う作品も見てみたいと思う。
    NHK日曜美術館30年展 東京藝術大学大学美術館


    NHK教育の老舗美術番組である、「日曜美術館」の30周年を記念しての展覧会。
    いや、日曜美術館が自分の生まれるはるか以前から続いていたというのは驚きました。個人的には、大きな展覧会に合わせたような企画のとき以外はあまり見ていないので、番組についての言及はできませんが、これからも続いて欲しいと思います。
    芸大美術館は、東山魁夷を見て以来、久しぶりに行きました。隣に、大学のミュージアムショップができていました。

    展覧会の構成は、番組でこれまで放送した作品から選んだものを、作品とVTRで振り返る、というものです。そういうことで、取り上げられた作家は多数で、かつ、ジャンルも絵画、工芸と多岐に渡ります。このような理由もあって、別段行かなくてもいいかな、と思っていましたが、上村松園先生とポーラ・コレクションで未見のルノワール、岐阜県美術館のルドン、が集められているということで行くことにした次第です。
    まず気になったのは、会期が短めであることと、巡回する関係と入れ替えの関係かと思いますが、図録に載っている作品で実際に展示してない作品が非常に多かったことです。
    各画家につき1作品というのは物足りない。このような作品数の問題に加え、趣味が限定されている方なので、思ったよりもとても早く終わってしまいました。以下、気になった作品を多少取り上げてみます。

    オディロン・ルドンは、岐阜県美術館から油彩一点と、リトグラフ2点が来ています。岐阜県美術館は群馬県立近代美術館を凌ぐ、日本屈指のルドン・コレクションがあるということなので、まとめて見られたら、と思っています。油彩「目を閉じて」はしばしば取り上げられる題材。油彩でも厚塗りの絵肌をつくって、多色を散りばめる大胆さが見て取れますが、顔の表現は繊細にできています。

    ルノワールは、ポーラ美術館に常設展時なされていなかった裸婦作品でしたが、水彩で塗ったような、とても淡く描かれた作品でした。VTRコーナーでも取り上げられているのだし、もっと完成度の高い作品を展示しても良かったでしょう。

    上村松園は、「花がたみ」一点(上図)。これは一枚で十分すぎるほどの完成度を放つ作品です。画題は能から取られているようですが、優美さや儚さといったものに加え、ある種の緊張が伝わってくる、中でも存在感ある作品です。いわずもがな、ですが、仕上がりはとても良くできていて、紅葉も葉一枚一枚に濃淡や色彩の調子をつけて描いています。
    上村松篁は松園の子で、初めて作品を見ました。花鳥図でしたが、平面的構図と色彩の配置で全体のバランスをつくるという意味で、装飾的な絵だと思いました。

    菱田春草「落葉」は木の幹が並ぶ絵ですが、構図・色彩ともにとてもまとまった作品だと思いました。一点の無駄もないような塗りをしていて、全体として堂々とした落ち着きを見せています。このように必然的な画面のつくりができたら、と思わせる素晴らしさを感じました。

    横山操はシベリア抑留の体験を持つ、昭和を代表する画家とのことで、初めて作品を見ました。富士山を好んで題材としたようで、今展にも「雪富士」という墨の濃淡で富士を描いた大作が来ています。まず見て、構図、山の切り取り方がダイナミックであり、これが前景の枯れた鋭い木々とあいまって、富士の荘厳さや冬山の厳しさを良く表現していると思いました。前景の木々は、強い黒の塊から生えてきているようで、後景との対比が強調されています。

    田村一村という人も始めて作品を見た画家です。奄美大島で活躍した画家とのことです。縦長の構図の連作のうち2点が来ていました。画面の構成が非常に凝っていて、自然の造形美を探究したというような作品です。特に「奄美の杜」は木の蔦・枝の絡みから、海の波まで、大胆な構図の下、非常に細やかな仕事がなされていて、好感を持ちました。

    今展には、多くの画家の作品を一度に見られるという、欲張り感やお得感があるのでしょうが、やはり、それらの連関は薄く、作品も限られてくるので、途切れ途切れで見ている感が否めません。もちろん、「そのような」展覧会の趣旨でやっていることなので、好悪はいえません。しかし、作品と関連のVTRを見て、その作品や画家への理解が深められる、一歩身近な存在になる、という見せ方は、やはり美術番組ならではだと思います。
    絵を描いていて思うこと
    絵を描いていて何気なく思うのだが、何故、紙を透かしてみて見ると、デッサンの狂いが良く分かるのだろうか。
    正面から見ていて、どこか具合が悪いと感じる。悪い、上手くいっていないと感じとれるのだが、決定的にどことどこを直せばいいのかに迷う。こんなときに、光に当て、線を鏡像にして見ると、恥ずかしいくらいに、狂いがクローズアップされる。

    特に、人物の顔は、ミリ単位で線がずれると、全く別のものになってしまう、とても繊細なデッサンが要求されるものだ。それを確かめるには、模写をしてみれば分かる。定規を使っても違いが修正できないものである。
    そういうことで、上記の現象は人物画において顕著に起るものである。
    例えば、漫画のキャラクターを描くとき、利き手の関係で、どちらかの向きの顔が描けない時がある。こんなときに、利き手で描き易い方の向きの顔を描いて、それをトレースしたりすることがあるように、鏡像を利用することは、幅広く使われてきた古典的技術だといえる。ほとんど、記号化された固定パーツに分けられる漫画顔と違って、リアルな顔はそれこそ、デッサンの狂いに迷い込むとつらいのだが。

    上で挙げたように、おそらく鏡像で違いが明瞭になるのは、利き手の関係で、つまり左右のものの認識レヴェルで起こっているのだが、そう考えると、やはり人間のものの識別力の弱さが露呈されてしまう。線対称で同じ形であるのに、左右の別で、どちらかの違いが認識できなかったり、どちらかが決定的に再現困難に陥ったりしているわけだ。もちろんそのものの中で一応の線対称をつくる正面像であっても、この左右の認識、識別力の違いは生じる。

    一面的な捉え方かもしれないが、絵(線)が描ける、ということの一番の要件は、違いが分かる、ということだと思う。
    あるものが対象を写し取り、これで十分だと感じる。しかし、またあるものから見ればそれは不十分で、似ていない部分がしっかりと分かる。ここには明確に、認識の違いが生じている。例えば、小学生の絵を中学生が見るときに見られる現象、といえば分かり易いだろう。
    しかし、ある程度の力をもった絵画経験者の絵を一般の人が見るときはどうだろうか。おそらく、普通の人の多くが、その絵を「上手い」(良く描けている、自分にはできそうもない、というような意味合いで)と感じるだろう。しかしながら、また別の絵画経験者が見れば、「上手い」とされているその絵は、どこかにデッサンの狂いを抱えた絵なのである。
    つまり、対象と寸分違わず絵を描ける人を一つの極端に、このような認識、識別の力のグラデーションが存在しているわけだ。
    もちろん、対象と違うのは重々承知だが、これを修正できない、という人が自分を含めて大方なのは分かる。だが、やはりこの場合も、それで十分と満足しているよりかは大分ましだとしても、どこが違い、どう直せば対象に近づくか、という認識力が欠けていることには違いがないのだ。

    いうまでもなく、完璧なデッサンをする0歳児を見た人はいないだろうし、このような対象を識別、再現する力を養うのは、繰り返しのデッサンには違いない。
    絵画の基本はデッサン、というような古典言説の価値が失われるものではないことは、アングルやモロー、ミュシャなど多くの画家が残した膨大なデッサンを見れば分かる。ものを線の集まりというよりも、構造で捉えているのだから、にわか画家などにはとても敵うものではない。

    僕は、大学に入ってから、それまでほとんど描かなかった人物画にシフトするようになった。再度いうが、人物の表現がダイレクトに、これまで見てきた人間の識別力の差を嫌というほど分からせてくれるし、それ以上に、千差万別、多種多様な人物を表現するのは面白いからだ。画学生ではないのだが、勉強をおろそかにこの一年ちょっとで3ケタの顔は描いた。一応の描き方というものは身に着けたように思うが、まだまだ「対象と違うのは重々承知だが、これを修正できない」というレヴェルから脱すのは早い。しかし、違いをきちんと理解できたときの快感は、世間でいうところの「難しい数学の問題が解けたとき」に匹敵するものである。あまり良い絵の見方ではないが、同年代の人の絵などを見るとき、いわば「狂いのあら捜し」もしてしまっている。絵を描く人は、自分の絵だけではなく、人の絵のデッサンの狂いなどにも敏感になるのである。

    形を写し取るという力は、どれだけ的確に違いが分かるか、という認識力にある。とはいうものの、この力がほとんど最大化されても、そのレヴェルになれば同じ絵生まれるというわけではない。デッサンに限っても、厳然と、画風というものがある。色彩に映れば、デッサンの幅を超える多様性がある。これがこれまで絵を支え、面白くしてきたものであることは間違いない。自分のデッサン力の限界が見えても、絵が続けられるのはこれらお陰である。それ以上に、人の見方は、「そっくり」に描いても、そんな絵はつまらない、というような残酷なものであったりもする…。

    結論というべきものはない文章になったが、ここで知りたかったことは、何故利き手の違いで、ああもデッサンに不便が生じるのか、その科学的で明確な理由、であった。文型学生には脳や筋肉の仕組みなどまで考えが及ばない。知っている方がいたら教えていただきたいものだ。
    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。