芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • オディロン・ルドン(Odilon Redon)について


    象徴派の画家として知られる、オディロン・ルドン(1840-1916)について書いておきたいと思います。
    ルドンは、まさに神秘的な画家。象徴派に数えられているけれど、扱う主題はともかくも、表現方法では類似した画家はいません。陰と陽の両方の世界をこれだけ明確に描き出した画家は、僕が知っている中ではルドン以上の者は見当たりません。

    彼が、空想、幻想の世界に強く魅かれているのは、少年期に親から離され、一人孤独な生活を送ったことに関連付けられますが、初期の繊細なモノグラフ作品は、自分の世界を深く内省したような、オリジナリティと不可思議さが見てとれます。彼が、アカデミーの画家、ジャン・レオン・ジェロームのアトリエに入りながら、数ヶ月で辞めてしまったのも納得がいきます。切り取られた子供の頭、人面たまご、サルのよう顔をした蜘蛛、と彼の世界は現実の世界を写実的に見るものとは、全く隔絶しています。
    後期には、こうしたある種不気味な、モノクロームの世界を抜けて、パステル、油彩による、花の静物や神話を主題とする鮮やかな色彩の世界へ移っていきます。僕がこれまで見てきたのも、このパステル作品がメインでした。もうかなり昔になりましたが、群馬県立近代美術館で、彼個人の展覧会を見ることができたのも、良い思い出になっています。しかし、何故、彼がキャリアも半ばを過ぎてから、それまでとは対照的な方向へと進んだのかは、興味の尽きないところです。(このことに関しては「美の巨人たち」に詳しい記述があります)

    僕から見るルドンの素晴らしいところは、色彩の組み合わせ、配置、パステルや油彩での優しい絵肌のつくりにあります。
    まず、色の組み合わせ、構成について。ルドンは、同系列色による、画面全体の色彩的統一をあまり志向していません。一つ一つの作品において、さら「誰々の、何(色)の時代」、というような画家自身のキャリアの中において、色調を統一することで、絵の世界観をまとめることは往々にしてありますが、ルドンはこうした方法をとらないのです。むしろ、宝石を散りばめるような、多色の組み合わせにこそ、ルドンの世界観があります。このような多色性を志向する画面においては、やはり、色と色が対立しあうことが問題となり、「ある種の」統一感を見出すことが困難となる場合が多いですが、ルドンはこの問題を解決しています。まずは、対立が深くなりうる、原色系統の色を避け、微妙な中間色を作り出し、それを補色と共に使うことで、色の独立感をなくしていること、そして次に、背景も大きく含んで、色彩の複雑なグラディエーションを作り出し、色彩のうねりの中にある種の統一感を見出していることが考えられます。この二点に大きく関わることですが、ルドンの素晴らしさは、やはり独特の背景処理を抜きには語れないと思います。
    そして、絵肌について。これはここであれこれいうことではないと思うので、機会があるときに実際に見てもらうことに尽きます。特にパステルの色彩の重ね方などはとても見事で、パステルの良いところを全て引き出したといえるマチエールです。

    僕も最近良くパステルを描くようになりましたが、ますますルドンの良さを実感するばかりです。彼のイマジネーション、繊細なデッサンやタッチ、色彩構成は一つの到着点といえる高みがあることは間違いないです。



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    ジンメル 『社会学の根本問題』


    ドイツの代表的な社会学者、あるいは哲学者ゲオルク・ジンメルの晩年の作品。
    この本は、読みやすい、短い、値段が安い(文庫版)と、まずもってお奨めできる要素があります。また、それ以上に、社会学を学ぶ人にとって必読レヴェルの重要さがあります。良く、ヴェーバー『プロ倫』、デュルケム『自殺論』などの古典、あるいはギデンズ『社会学』などの教科書くらいは読め、みたいな言説がありますが、その中にこの本を入れても全く構わないでしょう。

    内容は、ジンメルにとっての社会学の位置づけ、とそこの中で問題になってくる個人と社会との関係やその見方を、形式社会学、一般社会学などの章に分けて考察したものです。

    僕の捉えるジンメルの面白い点は、彼の社会観ですね。
    まず従来の社会観として、
    1.社会唯名論:実在するのは個人だけで、社会なんてものはない。
    2.社会有機体論:社会は実在し、それは生き物のように活動、変化している。
    が主にありますが、ジンメルは両者を退けます。
    彼は、個人の意識だけでは説明できない現象が実際にある点で社会唯名論を否定し、諸個人とは別個に巨大な実体としての社会が存在するような見地は、諸個人の絶え間ない相互作用を前提とする点で社会有機体論を解体してしまいます。

    すなわち、「社会は、言ってみれば、実体ではなく、独立の具体的なものではなく、一つの現象になる、個人間で与えたり、与えられたりする運動や影響力の関数になる」のです。より簡単に言えば、社会とは、個人の相互作用が折り重なって結晶化したものといえます。
    彼の「社会というのは、もともと、機能的なもの、諸個人の能動的及び受動的な活動のことであって、この根本性格から見れば、社会と言うより、社会化と言うべきものである。」という態度には、現代になって始まった「社会心理学(ミクロ社会学)」「社会システム論」の先駆けとなるものが読み取れ、とても当時としては斬新なものだったでしょう。

    社会学をかじるものとして、僕も大切にしている本です。
    岩波文庫(またはで値段は3倍くらいになりますが世界思想社のハードカヴァー)で手に入ります。

    本と思考
    自分の考え方が狭いと感じる。
    論文提出に追われる形で、半ば否応なく、古典的学説を読むのだが、その都度新しい見方や考え方を得る。そして書きかけの拙文を直す。
    このような、自己反省的作業をするとき、本を読め、というあの権威化された言説の正しさ、有益性が立ち現れてくる。勿論、そんなもの権威主義の盲従的な行動だと思っておられる方もいるだろうから、あくまで主観的なものだろうけれど。
    ここで大切だと感じることは、(純粋な知識でなく)考え方を提示している本であればそれほど、自己の見識を広めるだろうということである。それと、自分の問題関心と適合していることも重要だろう。だから、何が何でも字面を追えということではないのだと思う。
    僕は、小説を多く読んできた。それも、海外の翻訳のものである。確かに、小説は、楽しいし、驚きを伴うし、感動を与えるものではある。しかし、それだけを読み続けても、「本を読みなさい」の本当の意味は果たせてはいないのだと思う。その反対に学術本だけ読んでもつまらない。考えを広げる目的で、広い考えを狭めてしまう。
    本との付き合い方は、自分の思考の方向性にとって、重要な一要因になっている。考え方を広げ、枝分れする思考の柔軟さを養うためには、いろいろな立場、領域の本を読む必要が相対的にはあるだろう。
    NEW CHAPPIE chappie


    デザイン集団、groovisionsがプロデュースする女の子のキャラクター、chappieの歌うアルバムとして企画されたもの。
    ヴォーカルは、曲ごとに異なっていて、大分幅広いchappieのイメージがあるといえます。
    pal@popや川本真琴はいいとして、何故か、井上陽水、草野正宗、小西康陽、松本隆などのビッグなプロデューサーが参加しています。

    #1「Welcoming Morning」 は、pal@popプロデュースのchappieのデビューソング。album editになっています。このアルバムを聴く動機になったのも、pal@popが参加していたからでもあります。
    #2「Everyday」#6「The International Chappie's Cheer-leading Team」#8「デリカシーのかけら」#9「Happyending Soulwriter's Council Band」など、ポップではじけていて、やはり「かわいい」っていわれるような曲が多いと思います。全英詩、インストもあったりして、とにかくカラフル。ヴォーカルもかなりのヴァリエーションがあります。
    あと#10「七夕の夜、君に逢いたい」は森高千里さんが歌っているということのようですが、この曲だけ、周りと比べて浮いている感がします。個人的な違和感かもしれませんが。

    プロデューサー陣はすごいですが、全体的な調和を崩すような曲はなく、良いイメージアルバムに仕上がっていると思います。気軽に聴けて、なお且つ気分も晴れるような元気の良さがあります。
    近代の美人画―その耽美と憂愁 うらわ美術館


    明治以降、主に大正、昭和初期の近代美人画約80点(培広庵コレクション)を集めての展覧会。
    僕にとって、うらわ美術館に行くのは初めてであり、日本画オンリーの展覧会を一人で見に行くのも初めてでした。
    あまり接点がない日本画ですが、この展覧会が、近代の日本画且つ、美人画という人物を扱ったものであるということで、行ってきました。

    コレクションは、鏑木清方、伊東深水、上村松園などの有名な作家の作品があり、それらを東京、上方、金沢など作家の出身地域に区切って展示しています。

    入ってすぐ、山川秀峰の「花簪の女」(上図)「阿倍野」が特に目を引きます。
    「花簪の女」は単純な構図ですが、とても仕上がりが綺麗な作品。目など、墨の濃淡で描かれていて繊細にできています。
    その他では、京都の画家・小西長廣(ある時期から画壇から姿を消し、没年も未詳とのこと。かなりの力量がある画家なのに何故?)、同じく京都の画家・勝田哲、大阪の女性画家・島成園、金沢の画家・紺谷光俊などの作品が良かったです。

    このようにきちんと多くの日本画を見ると、僕のような、ほとんど何も知らない人間にも、日本画の持つ問題、論点が少し見えてきます。

    まずは、明治以降の近代化による、「日本画の様式の揺れ」。
    鎖国時代とはうってかわって、明治以降には、海外の絵にアクセスできる環境、それを学ぶ環境、そして画家が海外へ行く環境もでき、洋画の勢力が増しますが、日本画壇に、こうした洋画の流れへの相互作用(取り入れ、反発など)が見られるということです。日本画、洋画を行き来した画家もそれなりにいることも見れば、そういった面はより明らかでしょう。
    今回の展覧会でも、『伝統的な「引目鉤鼻」の無表情な女性像』、から、『多少なりとも近代の写実を組み入れた女性像』のグラディエーションが存在することは一目瞭然です。
    そして、より重要なのは、そのグラディエーションが、画家たちの中に存在することはもちろん、一人の画家の中にも存在するということです。
    例えば、北野恒富の「舞妓」は明らかに周りの作品と仕上がりが異なるし、岡本神草、中村大三郎なども、出展されている作品ごとに作風、色の塗りが異なっています。極めて伝統的なもの、写実主義的なものが当然のように混在しています。
    さらに、前近代と近代との融合、あるいは使い分けを、特徴的に見て取れる作品もあります。
    紺谷光俊の「採果図」は、人物の顔や衣の表現こそ伝統的な風合いがありますが、幹や葉、ブドウ、手足、骨格などはきちんとした写実性、科学性が取り入れられています。
    このような、伝統性が重んじられる日本画というジャンルにおいて、近代以降、それを抜けて写実性などが加味されていく流れは、とても興味深く、そのような作品には魅かれます。近代日本画に絞った今展に行こうと思い立った理由もここにあります。

    次に、構図の問題があります。
    日本画の社会での位置づけにも関係しますが、縦長の掛け軸の形式になるとやはり、構図の限界が見て取れます。かなりの縦長の画面に効果的に対象を入れようとすると、人物はほぼ立像になるし、動的な姿勢は描けません。しかも、背景なども取捨選択せざるをえなく、形式化されてくることになります。無理を通そうとするほど、「切り取られた」「断片的」といった印象を免れません。
    その点、画面を大きく保て、縦横をある程度自由に決められる障屏画形式などの絵の方は、構図の面ではかなりの発展性を感じました。
    特に、今展では、小西長廣「踊妓」(下図、部分)は、人物は静的ではあるけれど、良い広がりを持った空間をつくっています。
    ここでいっていることは、当たり前であるけれど、日本画の様式、構図を考える上で外せない論点だと思います。それ故に、大阪の女性画家、島成園の「化粧」は、縦長の画面を効果的に使った作品として評価できます。女性の手前に鏡を置き、背景も部屋の空間が感じられ、女性のすらっとした感じや、空間の遠近感などを引き出しています。

    今回の展覧会は、改めて日本画の魅力を発見でき、良い機会でした。
    特に、ムサビやタマビの日本画を見る機会にも思っていましたが、色の発色は文句なしに綺麗ですね。色が塗られているというよりも、色が染められている、発色しているという感じで、陰影こそあまり表現されないけれど、肌や着物のしっとり、さらっとした質感にはとてもあっていると思いました。また、墨の、柔らか味のある黒の表現もとても気に入っています。
    これからも、ここで見られた画家を中心に注目していこうと思っています。


    藤田嗣治展 東京国立近代美術館


    おそらく、日本人の近現代の画家でもっとも海外で有名であろう、藤田嗣治の作品を集めた展覧会。
    展覧会構成は、Ⅰエコール・ド・パリ時代、Ⅱ中南米、日本時代、Ⅲフランス時代という三部に分かれています。小セクションごとに壁の色や照明を変えて、展示場の雰囲気をつくっていたのも良かったです。

    Ⅰ部は、一番馴染みが深い、「乳白色」と表現される絵が占めます。
    「乳白色」という表現が的を本当に得ているのかは別として、白で強い均質な下地を作って、そこに細かな筆で輪郭線を入れる方法と、ほとんど数色で済まされ、布などの装飾が強調される世界は、仕上がりの印象が、近代の日本画などにも似て革新的だったのでしょうか。
    ともかく、ここら辺の作品は、早くも、絵画技法がかなり統一されている印象を受けます。
    布地は、しわまでも輪郭線で表され、あまり絵の具を含まないかすれた筆で、上から影がつけられています。この布の質感はあまり整理されていないのに対して、木の表現は、木目がきちんと丁寧に描かれ、より対象を捉えています。

    Ⅱ部は、パリを離れ、中南米を渡り描いた作品、再び日本に帰ってきてからの作品です。
    Ⅰ部で見られるような均質的な白い画面の絵ではなく、ここでは、色彩を多く用い、輪郭線を強調しない絵も見られます。でもどこか、落ち着かない感じを受けます。
    また、日本の情景を描いた作品でも、輪郭線を保ち、独特の揺れた線で描く画風をしながらも、色彩豊かになっている絵が見られて、作風の変化も感じ取れます。
    戦争画のセクションでは、画面を茶色っぽい灰色で統一し、そこに数多くの兵士が、表情、動きともにとてもダイナミックに描かれた、シンガポールやアッツ島の戦争画が見られます。藤田の力量が見られる絵だと思います。




    Ⅲ部では、日本を離れ、パリで制作をした作品のセクションです。
    ここでは、子供を主題とする絵、宗教画が多くを占めています。
    子供を描いた絵は、絵本に登場するようなかわいらしい感じの子供を、スマートな線で描いています。どれも素晴らしく、個人的にはこのテーマの作品が一番気に入りました。
    また、これも絵本にあるような、と呼べる、動物を擬人化した作品も見られます。かなりコミカルで、画家のイマジネーションを楽しめます。
    宗教画は、晩年にカトリックに改宗したのを機に、多く描き出されたもの。正直、こちらは見ていてあまり気持ちいい感じはしませんでした。

    この展覧会は、藤田嗣治の作品を年代順、テーマごとに配置する構成で、とても主題や絵画技法の変遷を追うのに分かりやすいものだと思いました。あまり藤田の作品を見たことがなく、特別な肩入れもないので、中立的な立場で、僕なりに、藤田の絵画技術などを見て、比較できたと思います。
    個人的には、装飾的な、「乳白色」のエコール・ド・パリ時代の作品より、後期の子供、擬人化された動物を扱った作品に魅かれました。この作品の方が、多色を用いて、線がとても綺麗に描かれていて、なお且つ、より動的な面白い構図が多いからです。
    また、これも個人的なことですが、僕も猫が好きで、猫を扱った作品を描いてきたので、同じく猫を頻繁に登場させる藤田には共感を覚えます。特に「猫」(下図)と題された、多くの猫が乱舞する絵は、一瞬の動きをダイナミックに捉え、とても面白く仕上がっていて、良かったです。


    「ロダンとカリエール」展 国立西洋美術館


    特別の親交があった、彫刻家オーギュスト・ロダンと画家ウジェーヌ・カリエールにスポットをあてた展覧会。このような企画は初めてらしく、特にカリエールを扱った辺りに、確かに目新しさがあります。芸術家同士の親交と相互作用は、良く論じられるところであるので、このように明確にテーマを絞って、見られるのは良いことだと思います(最近では、モネ、ルノアールに焦点をあてたものがありました)。プラド美術館展のような人の入りはなかったけれど、相対的な価値は、こちらの展覧会の方が個人的にはあると思うので、これからもこのような展覧会が増えてくれることに期待したいです。

    第一から第五までのセクションに分かれていて、各セクションは、彼らの交流、扱った主題ごとに明確に分けられています。階段降りて直ぐのビデオコーナーで一通りの流れを確認して見ると、一段と理解しやすいです。

    第一、二セクションでは、二人の交流にテーマが与えられていて、ロダンによるカリエール像、カリエールによるロダンの肖像や、「ロダン展」のためのカリエールによる挿絵、ロダンによる「ウジェーヌ・カリエール記念像」など、深い親交を物語る作品が集まっています。




    第三セクションから、見所となるものが多くなってきます。この章では、二人が共通して扱った人物画、像が取り上げられています。
    カリエールでは、「ギュスターブ・ジェフロワ氏の肖像」(上図)が注目されます。カリエール独特のモノトーンから少し離れ、この作品では、肌や唇などに色彩が入ってきます。そして、対象の内面まで写そうとする豊かな表現力は見事です。緊張感のある表情、奇妙に交差した手などは、何ともいえない雰囲気をつくっています。
    解説や作品を見れば分かる通り、カリエールは象徴、思想を大切にする画家であり、無駄なものは一切描きません。対象そのものをどう表現するかのみで、その内面性までに迫ったものを表すという志向や技術にはかなり共感を覚えます。




    第四セクションは、両者の象徴主義について。
    一、三のセクションを除いては、ほとんどが象徴主義に還元されるような作品ばかりですが、ここでは特にロダンの「最後の幻影」(上図)やカリエールの「母性」の主題を扱った作品に焦点をあてているようです。カリエールの母の接吻などの作品は、他にもより完成されたものもあるので、もっと多く見たかった感は残りました。ロダンの「最後の幻影」は、レリーフ的な作品で、さらにカリエールと並べられていて、その意味で絵画のようにも見えました。

    第五セクションでは「ロダンとカリエールを結ぶ糸」と題されていて、また主題の問題に立ち返ります。ユゴーの作品に関するものや、デッサンやトルソという習作からも共通点を読み取ります。
    カリエールの縦長の大作の三連画「道行く人々」「もの思いにふける若い娘」「思索する若い女性」は110年ぶりに並べられているということ。巨大なキャンヴァスに人の全体像を描く作品ですが、やはり他の作品とは違って背景の絵肌にも気が配られていて、カリエールの制作過程を想像するにも面白いです。大体は、かすんだ茶灰色の画面を作ってから、対象をそれに白を混ぜた絵の具で描いている(もしくは背景と対象ほぼ同時進行で描いている)のだと思いますが、まるっきり同じような描き方にみえても、それぞれに微妙な絵肌のつくりの違いなどもあるので、絵をかじっている人は絵画技法にも注目してみても良いかもしれません。

    ロダンとカリエール展のレヴューは以上ですが、かなり久しぶりの国立西洋美術館ということもあって、常設展も見てきました。ナティエ、ミレー、カロリュス・デュラン、ミレイなどの、おそらく見ているだろうけれど「こういうのもあったんだ」という発見もあったので、定期的に見たいと思います。エスカレーターも広くなってたりして、本当に長く西美には来ていなかったと実感。
    また、常設展フロアでは、「芸術家とアトリエ」という題で版画作品展もやっていました。ブーグローなどの興味のある画家のアトリエ訪問記を見られて面白かったです。
    プラド美術館展 東京都美術館


    プラド美術館から、スペイン宮廷絵画、イタリアルネサンス絵画など、16-17世紀絵画を集めての展覧会。
    会場は、結構混んでいて、十分に見られなかった感は否めませんが、久しぶりのルネサンス絵画ということもあって新鮮でした。

    一章はスペイン絵画です。エル・グレコ、ベラスケス、ムリーリョなどをメインに、宗教画、肖像画以外に、花卉画などの静物画が目を引きます。
    まず、フランシスコ・リバルタ「聖ベルナルドゥスを抱擁するキリスト」の布や肌の質感のつくり方は良かったです。幻視を極めてリアルに、神々しく描いた作品。画家は、カタログでは、「17世紀初頭のバレンシア派の最も重要な画家」と紹介されています
    それから、ジュゼッペ・デ・リベーラの三作品が続きます。最初の二作品「聖アンデレ」「盲目の彫刻家」は、共に老人を描いた作品ですが、肌の質感などは、とても良く表現できていて、リバルタと比べてみても面白いです。また、カラヴァッジョから影響を受けているということもあって、光の表現も上手いです。
    フアン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソのマルガリータ王女を描いた作品は、周りの作品とは趣が違っていて、はっとさせられます。描いている人物、調度品の類は17世紀な感じですが、ベラスケス寄りな絵画技法は、より洗練されている印象を受けます。後でカタログを見て、これが18世紀の作品だとされていた経歴を知りましたが、確かに印象のレヴェルでは誤っても仕方ないと僕も思いました。
    一章を締めるのが、ムリーリョ。「エル・エスコリアルの無原罪の御宿り」(上図)は、このセクションの一枚といえます。マリアに焦点化される無駄を描かない構図、マリアの古典化されない表情、背景の柔らかい質感をつくるタッチなど目を引く要素がいっぱいです。下方の天使が持つ草花にも、きちんと必要な筆を配っていて、流石の趣があります。
    ムリーリョは、ほとんど最近注目し始めた画家で、ルーヴルでは、このような類の作品を見ていないように記憶しているので、ムリーリョに対してさらに関心が深まりました。ここでも「無原罪~」「貝殻の子供たち」と「聖パウロの改宗」を比較しても、やはり主題による絵画技法の使い分けが感じられて、それが画家の幅を広げていると思いました。



    二章は、イタリア絵画です。この章は、ティツィアーノに集約されるといっても良いセクション。
    まず、展覧会広告にも大きく使われている「アモールと音楽にくつろぐヴィーナス」。近くで実際に見ると、ティツィアーノの繊細なタッチとは違った感じで、特に人物以外は大胆な、大まかなタッチの作品です。
    次に「サロメ」(上図)。ティツィアーノもサロメを描いているのだと初めて知りましたが、とても秀逸な作品で、この展覧会の中でも一番魅かれた作品です。サロメだけを描き、彼女がヨハネの首の載った銀皿を掲げ、振り返るようなポーズでこちらを見ている構図です。この緊張感を引き出す構図と、かすれたような繊細なタッチで、やわらかな光を表現する色彩は全く以って感嘆です。カタログの方にも、この構図の他作品への大きな影響が指摘されています。
    その他では、灰色のくすんだトーンの中で写実的に人物を描く、ベルナルド・カヴァッリーノ「聖ステファヌスの殉教」、光の表現が見事で、迫力のある花卉画である、アンドレア・ベルヴェレーデの作品が良かったです。

    三章は、フランドル、フランス絵画です。
    ルーベンスのダイナミックな作品、ファン・ダイクの上質な肖像画がメインでしょう。いつ見ても、ファン・ダイクの完成度の高さには感心です。

    四章は、18世紀ロココ美術です。
    ルイス・メレンデスのボデゴン(スペインでの静物画、厨房画)のシリーズが見所でしょう。ボデゴンまたは、その他の花卉画は、各章に作品があり、それぞれの技術を見ることができる機会にもなっていると思います。
    メレンデスの果物は、少しハイライトを強調しすぎる感もありますが、逆に水差しなどは、陶器の質感ばっちりでかなりリアルです。
    その他では、シャルル=ジョゼフ・フリパールのテーブルの原画のための作品が興味深かったです。
    ブーシェとか直なのはありましたが、全体として、あまりロココっぽい感じはなかったセクションでした。

    終章はゴヤオンリー。
    カルロス四世の肖像は、紅い服と緑の背景が対比されていて、中でも完成度が高い作品です。また「魔女の飛翔」という奇妙な作品もありました。

    2002年に開かれた「プラド美術館展」には行けなかったので、プラドの作品に触れる機会として良かったです。特にムリーリョ、ティツィアーノの作品には良い刺激を受けました。東京展は6月終わりまで、大阪展もその後三ヶ月開かれるというので、多くの人が来場し、有意義な時間を過ごされることと思います。
    最後に、今展のカタログは、論文、解説、コラムが多く載せられていて、時代、作品背景などを知るのにとてもためになります。お奨めしておきます。