芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • 「スイス・スピリッツ 山に魅せられた画家たち」 Bunkamura ザ・ミュージアム


    スイスのアルプスの山々を主題とした絵を集めた展覧会です。作品は、18世紀の古典作品から、現代のモダンアートまで集められていて、かなり幅広い表現を見ることのできる展覧会になっています。

    実際のところ、モダンアートがメインのように聞いていたので、行かなくてもいいかな、とも思っていましたが、近代の作品もあると分かり、やはり絵画との出会いはまさに一期一会になることも多いので、行くことにした次第です。テーマが山、と明確に定められているし、油絵にこだわらない現代アートもあって、「楽しめる」展覧会でした。以下、かいつまんで作品を取り上げます。

    第一セクションは、カスパー・ヴォルフの作品メイン。
    ヴォルフの作品は、まず大胆な構図が目を引きます。岩や氷河が画面の大部分を占めるような絵ですが、構図の切り取り方が良く、飽きさせないつくりをしています。また、タッチは平たい塗りをしていますが、岩や氷河とも、下塗りの段階から、さまざまな色を使い分けていて、単調さを全く感じさせません。
    第二セクションは、19世紀の山岳絵画。
    ヨハン・ヤコブ・ビーデルマンの作品は、一つ一つの筆が無駄がなく精確で、すごく精巧な塗りをしています。また、意図的な配置で遠近感を出す、「ルプソワール」が意識されていて、それが見事な色彩表現でもって、大気遠近が顕著に引き出されています。
    そして、この展覧会でも一番の出来だと感じたのが、ラファエル・リッツの「ピッツ・ダ・リンゾル峠の旅人」。切り立った峠で旅人たちが休憩する場面を描いた絵です。まず素晴らしいのが写実力。岩の緻密な表現は、他の作品を含めても光るものがあります。また、構図も面白いです。特に背景の処理は、前景のごつごつした岩の景色と対照的に、雲、大気のうねりが感じられ、神秘的な雰囲気まであります。加えて、人物の配置にも気を配っています。

    第一、第二セクションは、古典絵画とカテゴリできるものですが、それらには、風景画、山岳画ということがあって、(線的)パースによらないダイナミックな遠近感が求められます。それ故に、前後関係性と大気の表現が一層意味合いを強く持ってくるわけで、それは構図や微妙な色彩の表現がとても繊細に求められることになります。そんなわけで、構図、色彩はとても厳格なものがあったと思います。中でも、この複雑な色彩は、印刷で十分読み取れるわけもなく、残念ながら図録は満足がいきませんでした。


    第三セクションは、1900年前後の印象主義的な作品。
    まず、アレクサンドル・ペリエの作品が良いです。「テリテット郊外の夜」は夜の山と山に反射する湖を描いた作品。ここでは、印象主義の再解釈というものが読み取れます。山のうねりあるタッチは、ゴッホなどの表現に共通するものですが、線的なタッチは全ての部面において整理されている、といって良く、独自の印象主義が見えます。タッチの大小による遠近感など意識されている点も指摘できます。
    もう一つの「グラモン山」は「テリテット郊外の夜」の昼ヴァージョンのような絵で、パステル色調に統一された綺麗な作品。この作品でもタッチは細かく均等に整理されています。特に水面に山が反射したところのタッチは考えられていて、見所にといえます。
    そして、この展覧会のテーマ絵として設定されている、ジョヴァンニ・セガンティーニの「アルプスの真昼」(上図)も素晴らしかったです。細かく細い(?)タッチを重ねることで何ともいえない絵肌をつくっています。ある意味で、点描、線描の「薄っぺらさ」を超えた作品と呼べるのではないでしょうか。この絵でも、効果的な細かいタッチの流れ、うねりが良い効果を生んでいます。
    さらに、このセガンティーニの、後の作品がありますが、こちらは、「アルプスの真昼」とは逆に、印象や象徴に走ってしまっています。「アルプスの真昼」は発表当時から評価されたといいますが、この作風のセガンティーニをもうちょっと見たい感は残りました。


    第四セクションからは、印象主義後の画風の作家、第六セクションからは現代アートが並びます。
    第四セクションでは、第三とも比較して、ジャコメッティ(父)の色々な試行が見られますね。諸印象派画家やセガンティーニの影響に揺れ動いていることがはっきり分かります。
    現代アートのセクションは、発想、感覚を「楽しむ」ところだと思うので、特別には感想・批評は控えます。本当に奇抜な面白い作品が多く、見る側を喜ばせます。シルクスクリーン、写真、造形、グラッフィックアートなどさまざまな表現媒体を見ることができます。マルクス・レーツ「これだってニーセン山」など、もうやられた、って感じです。


    またもや、会期ギリギリでいってしまいましたが、残り少ない期間、アートや大自然に興味がある方には行ってもらいたいです。僕も思いましたが、迷って行っても、損はしません。
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    フィラデルフィア美術館展開催決定
    アメリカのフィラデルフィア美術館の作品を集めた展覧会が来年開催されることになったそうです。2007年7月14日~9月24日、京都市美術館で、同10月10日~12月24日、東京都美術館で開催する、とのことです。

    フィラデルフィア美術館は、印象派以後のフランス絵画のコレクションが発達した良い美術館であるので、この決定は嬉しいです。パリやロンドンのように、美術館が密集していてくれると一度に効率よく見られると思いますが、アメリカとなると、そうはいかないので、一部でも日本で見られるというのは実にいいことです。特に、この美術館所蔵のあるルノワールの作品は、高校のときに見て、初めて模写した思い入れの強い作品なので、それが来るとしたら6、7年ぶりくらいにまた見られるのかな、と思ったり。楽しみにしたいです。

    アメリカのコレクションはここ最近、良いものが来ていますよね。バーンズコレクションや、フィリップスコレクションは世界でも有数のものでした。それに続いて、フィラデルフィア美術館のコレクションとどれもクオリティが高いです。あとは、ボストン美術館のコレクションが見たいですね。名古屋ボストン美術館では、しばしば紹介されていますが、東京で企画展が欲しいところ。本当に西洋絵画コレクションに絞った大きな企画展をするなら、名古屋まで行きますが。
    でも、こういうこと考えると、東京は恵まれていますね。まさに文化の中心地。だから、できる限り東京近郊からは離れたくないです。某会社説明会に行って、その本社が山陽にあるということを知って、冷めてしまったのも、良く考えれば、別に恥じることでもないように思われます。やはり、芸術から遠ざかるってことは、心を枯らすことになるので。(勿論、僕の視点で見た狭い意味での芸術です。地方でも、その人なりの芸術はあります。)
    ドロシー・L・セイヤーズ ピーター・ウィムジィ卿シリーズ


    セイヤーズのピーター卿シリーズは、クリスティのポアロシリーズと並んで、イギリスの推理小説黄金期を代表する作品。

    セイヤーズは推理小説家として知られますが、それ以外の才能も持ち合わせた「文学人」といっていいでしょう。ラテン語、フランス語、ドイツ語が使え、オックスフォード大学卒業後は教師にもなっています。
    また詩集や、戯曲、エッセイも残しています。さらに有名なのが、晩年の、ダンテの『神曲』の翻訳です。
    このように、多彩な能力を発揮する才女だったわけです。

    そして、彼女の推理小説の主人公がピーター・ウィムジィ卿です。
    貴族の次男で、古書、音楽、グルメなどに精を出す相当の趣味人。
    従僕のバンターは、そんな活動的な主人に付き従う、冷静沈着で仕事のできる補佐役。
    友人のパーカー警部は、ピーター卿の推理を支える協力者です。
    この三人を主軸に、ピーター卿の家族や、後半には、恋人となるハリエット嬢を交えて物語は進みます。


    セイヤーズの特徴は、時には増長とも言えるような、綿密な状況、心理描写にあります。これは、淡々とした書き味のクリスティと対比されるところで、人々の内面の描写を重んじるセイヤーズのスタンスが出ているところです。
    また、そのため会話も多く交わされ、その中にも、遊びの要素が多くあります。会話の端々に文学や詩篇からの引用やもじりがあふれていて、女史の博学が嫌というほど味わうことができます。
    加えて、貴族世界が主要な舞台にもなっているので、セイヤーズの小説は、物語色が強いというか、もっというとファンタジックな感じを受けます。

    確かに、客観的に見ると、くどいといえるような叙述は、一部からは好まれないように思います。文学や宗教やその他の文化に詳しくない、というより女史の知識に追いつけない部分が必ずありますし。
    しかし、セイヤーズが多くの読者を獲得し、現代の著名作家からの信奉を多く集めている部分も、この特徴的な描写方法なのです。
    会話は、結構ユーモアにあふれていて面白いです。何か起こると「ボリシェビキの陰謀じゃないの?」と心の中で密かに突っ込む僕の癖は、ピーター卿ゆずりです(!)。

    そういうことで、セイヤーズは、寡作とされる作家だと思いますが、それぞれの作品の緻密さ、重厚さは光るところです。
    書店や図書館でシリーズがざらっと並んでいるのを見ても感服しますね。僕も、良く読んだと自己満足したり。

    作品は、最後の長編「忙しい蜜月旅行」以外は創元社で読めます。
    西村敦子氏の独特なカバーイラストが目をひきます。また、「忙しい蜜月旅行」は最近、早川書房から新訳が出たようです。(著者表記にミドルネイムのイニシャルの「L」を抜いているのは少し疑問です。)
    ベオグラード国立美術館所蔵フランス近代絵画展 日本橋三越


    ベオグラード国立美術館から、印象派以後のフランス近代絵画をセレクトしての展覧会。東京会場は、美術館ではなく、デパートのギャラリーになっています。ほとんどといってもいいくらい他所では宣伝していないのに混んでいました。
    僕個人としては、デパートの一角でやるよりかは、きちんと宣伝して、美術館でやってもらった方が良いと思います。これだけのクオリティがあるのに、会期も相当短くなってしまってますし。つまり、宣伝と期間によって、見たい人が見れない(見れなくなっているだろう)のは問題もあるかなと。

    そういうことで、さほど期待はしていなかったこの展覧会ですが、いってみると、かなりコンセプトが明瞭で、作品数もある良い展覧会でした。「近代フランス絵画展」というだけに、近代フランス画壇の大物は網羅しています。ドーミエ、モネ、ドガ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、カサット、ヴァラドン、モロー、ロダン、カリエール、ルドン、シニャック、ボナール、ロートレック、ユトリロ、…と最後まで挙げることのできないくらいです。



    最初は、コローの固い画風の風景画から始まり、「踊り子」をメインとするドガの素描群が現れます。
    第一のセクションでは、やはり、モネのルーアン大聖堂シリーズの一つ「ルーアン大聖堂/ピンクの大聖堂」が見所でしょう。個人的にも、この作品はシリーズの中でも、上位の方にランクされます。パステル調のピンクと青の融合と絵肌のつくりはとても見事で、空の映える色調も良い感じを出してます。ちょっと、神々しい印象を受けました。
    それと、メアリー・カサットの二枚のパステル画。カサットは作品数をあまり見ていなく、パステル画は初めてだと思います。素描に近い感じですが、顔は綿密に完成されていて、肌の表現は、肌色に加え、水色を使っているんですよね。ルノワールも顔の下塗りに青を用いたりしてますが、同様の良い効果を引き出しています。見習いたい技術ですね。

    第二セクションは、ルノワールオンリー。
    完成作とされるものは少ないですが、それを支える習作、デッサンや油彩の小片という資料的価値のあるものが沢山あります。いつも油絵で筆のタッチを見せられているので、線描が多く見られる機会として良いものでした。「傘を持つ女性」(一部、最上図)や「ギター奏者」の主題は、数点まとまって見られます。中でも特に魅かれたのが、木炭デッサンの「字を書くココ」。息子のクロードが字を書いているところをさらっと描いた作品ですが、木炭の線描と、かすらせる効果を最小限の描き込みで表現していているだけなのに、ぬくもりとか優しさといような雰囲気を醸し出せるのはすごい。
    油彩の完成作は二点ほど来ています。一点の、「水浴する女性」は一度盗難された作品。犯人が素人だったようで、絵は切り取られ、丸められ、相当な損傷を受けたようです。いくら凄腕の専門家が修復しても、激しい損傷の跡は消えるわけなく、やはり一級の美術品は守られて欲しいな、と痛感。美術館にとって、窃盗というのが一番怖いようで、模倣犯を避けるため、盗まれても簡単には公表できない事情とかもあるようです。それなので、知っている以上に、美術品は危険な状態にあります。

    三番目のセクションは、ポスト印象派と象徴派の絵画。
    ここはなんといっても、オディロン・ルドンの木炭による象徴主義的作品です。僕は、結構ルドンの作品を見ているといえる身だと思うのですが、正直ほとんどパステルと油彩で占められていて、木炭画は見ていない状況でした。この展覧会はこちらの方がメインであって、ルドンを象徴主義に結び付けている作品を見ることがやっとできたという感じです。本当に繊細かつ不思議な作品で、ルドンの想像力は群を抜いていますね。
    それともう一つ気になったのが、ロートレックの油彩による肖像画。初期の古典主義的技法を用いた作品で、後の彼の画風とは正反対で興味深かったです。

    最後のセクションは、フォーヴィズム、キュビズム、エコールドパリの絵画。
    中でも、ヴラマンクの「ブージヴァルの雪景色」が有名作ですね。もう一つ、ヴラマンクの同じ1920年代の作品がありますが、この時期の作品は、黒の使い方が印象的でした。他の色は大胆な筆触を使うのに、黒は筆触を感じさせない、沈んだ塗り方をしていて、黒とその他の色の対比は面白い効果を出しています。
    あとは、ユトリロの作品が5点あります。家の壁の表現、空の色調は、全体的な陰鬱さを醸し出していて、微妙な雰囲気があります。


    今回の展覧会は、特に印象派のセクションで、木炭やパステルの素描を多く見ることができ、また違う側面を見れたかな、と思います。また、前述の通り、近代フランス画壇を良くまとめていて、それぞれの対比や類似などの関連を見てとれる良い構成をしていると思います。
    これを書いている時点で、東京展はあと二日というのが残念ですが、三越という場に負けず、若者に是非行ってもらいたいですね。
    自分にとっての社会はどこまでか? ―身の周りと「社会」との距離―
     最近しばしば気になることのひとつが、どこまでが自分の諒解する社会なのか、ということである。なぜなら、皆が議論する「社会」には自分がいない、と思わせることが時々あるからである。これは、最近のマスコミの報道の例を見ると大いに考えさせられるのである。
     極めて端的に例を挙げると、福知山線の脱線事故では、一分一秒を争い急いでいた体質が問題に、ライブドア事件では、お金ありきという「拝金主義」が問題になった。そのとき、コメンテーターを中心とするゲストや、街頭インタビューを中心に、自己反省のない、追求が目立ったように思う。勿論、事件になったことは大きな問題で、徹底的に解明し是正される必要がある。しかし、そこで問題になったことは、事件当事者だけのものではない。テレビに出てきた人は、「私は違うけれど」のような前置きをつけていて、批判しているように感じた。つまり、自分の身の回りの世界と事件になっている世界は別なのだという意識が見られた。
     繰り返すが、テレビで取り上げられていることと、自分のいる社会とが全く関係ないということは無い。必ず、そこで問題になっていることと自らは少なからず関係している。マスコミの「事件報道」という性格を考えても、問題を切り離し批判することで、それを自分たちいる世界に無いものとして描いている。これは、もうお気づきのことだろうが私たちの生活でも同じくみられることでもある。
     自分の周りを囲ってしまい、何か事が起きたときに、それだけを叩くことで、自分の内にある問題に眼をそむけては、真の解決にならない。何かしら、問題を解きほぐす方向へと進めるとしたら、問題になったことも、自分のいる社会のことだという意識を持って、包括的に議論することが必要であろう。この意味で、「自分いる社会」の意識を、どれだけ広く持てるか、ということがいろいろな問題に向き合う「社会人」に求められているように思う。いうまでもないことが、そうしないのなら、「社会人」として生きないのなら、お気楽に自分の世界で、それなりに楽しんでれば良いことであるが。
    文章癖  ――反省として
    僕は去年でいえば、学校の提出論文などで、A4で50枚以上、それとこのブログのアーカイヴスにあるだけの文章を書いた。まあ、結構書いているほうだといえる。少し前までは日記も書いていたこともあるし。
    僕の例を挙げるまでもなく、学生、それも文系学生は、学期末論文をメインにそれなりに文章を書いている。就活ともなれば、それにさらなる負荷がかかることとなる。

    文章を沢山書く人がいても、その中で文章が上手い、下手の差はやはりあるもの。上手ければ、言いたいことを的確に相手に伝えることはもちろん、大したことない内容もそれなりの風格を帯びるものである。僕なりに上手い文章とは、流れ、つまり論理構造が明確なこと。例えば、接続詞を除いても(また無くても)内容がすんなり入ってくる文章である。それと多少、スパイスとなる、レトリックを効果的に使用していること。レトリックは、スパイスであるから、入れすぎも良くない。

    文章を上手くなるのはおそらく容易ではないことだと思われる。僕は、論文を書いているときに、常に下手さ、未熟さに向き合うことになるので、実感していることである。上手くなるには、上手い文章を沢山読み、沢山自分で書くしかないのだろう。
    上手い文章にたどり着く前にここで考えるべきなのは、自分の文章の癖を理解することである。特に癖とは、この場合偏重癖であり、その語への「寵愛」からなる。自分でも多く文章を書き、他人の文章も多く読んでいると、まず気になるのがこの点であり、自分や他人の文章を客観して考え、比較できれば、問題にもアプローチできることになる。

    他の人はマズいので、僕の文章を例に考えてみよう。

    ①「もちろん」を使いたがる。――副詞の例
    もちろん、とは「論ずること勿く」ということで譲歩の形で用いられる。譲歩だが、いっているように、論じるまでもないことであり、内容は一般、平凡なもの、諒解しているものになる。論じるまでもないが、論じてしまうという哀しい性かもしれない。対処法として、「いうまでもなく」「確かに~」「一般には~といわれるが」というような形に変換するか、本当に言うまでもなく切り捨てるかにある。僕のように、ある副詞を多用する傾向にある文は多い。

    ②いき詰まると「つまり」に逃げる。――接続詞の例
    僕は、やたらに重要な接続詞「つまり」を使ってしまう。その重要さは、国語の先生よろしく、「つまり」の後の文に線引いて一通り読めば、骨組みが分かるほどである。だいたい、このような接続詞が乱発されるような文は駄文であろう。僕の場合、困りながら無意識に書いていると、「つまり」の後にまた「つまり」を書いているという、とんでもないこともある。いいたいことがはっきりせずに、内容を無下に「こねて」いるだけである。対処法として、「要するに」「従って」「換言すると」「ゆえに」などといった接続詞を代理するか、ここでも使わないか、という選択肢がある。繰り返すが、前者の方向はゴマカシであって(確かに、文の重要度を変えて起伏をつけてはいる)、駄文へとつながっている。
    他の人でいえば、小学生みたいにやたらと「そして」が多い、また逆接が多い文は典型的な例だろう。往々にして、接続詞の乱発は上でいったような文章の上手さの規準から言って、よろしくない。

    ③並列、追加の表現。――副詞と接続詞の例
    これもこれもある。また、もっとこういうこともある。ということをいいたいとき、「や」「など」を使い、「また」で内容を追加することになる。このような文構造を僕は使いすぎている感がある。文構造は同じでも、「また」を「さらに」「加えて」「そして、~も」と変換しているのである。

    ④「このような」が多い。
    これは、どうあがいても逃れなれていない癖である。前の文を受けて論ずるとき、「このような」「こうした」「こういった」「以上の(ような)」を多く使ってしまう。対処法は、文章の論理構造を変える以外には、「こ」を「そ」に変える、微々たる印象変化くらいしかないのかもしれない。この癖は悩みどころ。

    以下は、癖の典型例。
    ③体言止めや、語順が「奇抜」なもの。
    普通の論文には、やはり体言止めがくると「あれ?」という感じがする。目立たせたりはできるが、スローガン調になることも否めないし、それまでの流れから浮く。使い方は慎重であるべきであろう。また、語順も癖が表れるところ。主語が後ろ過ぎたりすると、これまた浮いた文章になる。

    ⑤点が多すぎる、あるいは少なすぎる。
    点をどのように打つかも人によって、意外に顕著なものになってくる。僕は多分、多すぎるので、くどい点を見直しで消すようにしている(それでもあまり打たない人からはくどいと思う)。ただ、僕のような点打ち屋からは、点が少ない文は、つまっていて見にくい。やはり適正使用が望まれる。

    ⑥一つ一つの文章が独立的。
    接続詞がなく、淡々とした形で文章が並んでいるが、それぞれの意味の繋がりが薄く(見えづらく)、独立している文章は癖というより、駄文になる可能性がある。接続詞が無くていいのは、論理の流れが明確であるときである。よって、繋がりを示す接続詞の無いとき、それが安易な文の並列だと意味がとりづらい。例えば、明らかに理由をいっているのに、「なぜなら」というような接続詞に加え、「~からだ」「~だということだ」という叙述も省いてしまうと、極めて読むのに根気がいることになる。

    このように、文章癖を考えてみると、直ぐに気付くのが、その本質は、語の多用というよりも、同様な、論理の叙述形態に陥っていることにある。例示が好きであれば、追加、並列の語を、譲歩が好きであれば、「確かに」という譲歩と、その後の逆説を多用することになる。もちろん、癖、つまり多用が悪いことはないし、譲歩や逆説を使わないで文章を書くのは不可能である。大事なのは、文章がマンネリ化された論理構造に陥ることなく、弾力のある文章になることを努めることである。この意味で、意味の印象変化や、重要度などの起伏ができる、語のヴァリエーションを獲得することが始めの一歩となる。
    そのためにも、自分の文章癖を客観的に理解することが重要である。