芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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    村治佳織 Transformations


    日本を代表する女性ギタリストとして、特に有名なのがご存知、村治佳織。
    このアルバム「Transformations」はその作品の中でも、とりわけ聞きやすいものの一つだと思います。だいたい、クラシックギターのアルバムになると、バッハ、タレーガ、トローバ、ポンセ、ロドリーゴなどの作品、またはカタロニア民謡というように曲が固定化されてきます。勿論、ギターのための曲というのが、そんなにかかれていなく、上記の作曲家が集中的に取り扱われるのは全く自然なことです。しかし、馴染みが薄いのがやはりとっつきにくいところです。
    ですが、このアルバムは、日本の偉大な作曲家、武満徹の「ギターのための12のうた」が扱われています。武満徹は幾つかのギターのための作曲、編曲をしていますが、「12のうた」は武満が、自ら曲を選んだギターのための編曲集です。特徴は多くのビートルズ曲が選ばれていること。「ヘイ・ジュード」「ミッシェル」「ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア」「イエスタデイ」が入っています。その他にも、ミュージカル・オズの魔法使いの主題歌、「オーバー・ザ・レインボー」などのメジャー曲があります。
    「12のうた」以外も、武満作品が入っていて、個人的にも彼の音楽に触れる機会になりました。
    加えて、ボーナストラックトラックとして、名ギタリストのドミニク・ミラーとのデュエットも収録されています。
    演奏は、ノイズの少ない、クリアでシャープな感じ。プロとはいっても、ソロで良くここまで金属弦のフィンガーノイズ抑えられているな、って感心です。勿論、曲の難易度、運指の物理的困難さ、っていう問題はありますが、他の演奏家の作品をCDで聞くとやはりもっとなっている、聞こえてくる感じ・印象ですからね。
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    アプローチの規準(未完)
     ある主張を読むときに、しばしば気になり、また、このブログでも、時折問題提起をしているのだが、その主張が拠っている、問題へのアプローチの仕方によって、論の方向が二分されるようなことがある。簡単にいうと、比較の対象となるものの中から、同質的なものを拾うか、逆に異質的なものを拾うかが、ある類の言説の中では、割と顕著な方向性を描いている、ということである。
     簡単にここでいう論理構造を定式化してみよう。その主張では、ある二つのものが、同じもの(正確に言えば、共通した、同属的な、などという言葉を補うべきだが、ここでは簡略に言う)と仮定されているときに、二つの間の異質的なものを見つけ、抽出することにより、その反証が行われる、ということである。勿論、その逆もしかりである。
     
     例えば、現代の家族の形態は、普遍的なものである、という言説があるとする。
     ここでは、同質的なものを集積する考え方は、一般的な意識に適合的なものと位置づけることができる。ほとんどの人は、昔から、家族は、血のつながった人々が営む、愛情などで自己規定された集団としてあると思っている。このような考えで表面的に歴史を振り返れば、同質的なものを集めることは簡単である。
     しかし、異質的なものを集めようとする考え方では、例えば、18世紀までのパリではほとんど子供は里子に出されていたということ(バタンデールの報告)や、未開社会の家族構成や婚姻形態が現代と大きく異なっていたということ、現代家族の姿や位置づけなどは、新しく政治権力によってつくられたもの(政治的家父長制など)であるという言説によって、上記の言説を否定しようとする。
     つまり、家族概念と漠然とみなされる社会的事実も、記述の仕方で全く異なった論理的方向性を示しうるのである。家族は普遍的概念とも言いえるし、そうではない、とも言いえる。
     ここで、重要なことを忘れてはならない。この小論で問題にしているものは、アプローチの仕方によって、対象となるものが違った方向へ傾いて記述されていく過程にある仕組み、構造を考えることにあるのであって、その裏にあるだろうイデオロギーや目的、意図など主観的領域には決して立ち入ってはならないということである。なぜ、その方法論がとられたのか、ということなどは、このような一般化された議論では個別に扱えるわけないし、一部的にも扱うならば、そのものの問題提起すら意味のないものになってしまう。説明するまでもないが、アプローチの仕方が異なるのは、著者のイデオロギーなり目的が異なっているということなど、初めから分かりきったことであるからである。要するに、考察対象を見誤るのは致命的な間違いである。また、全てにおいて同質的、あるいは異質的なものを集積するような議論などそうあるわけではない。つまり、現実にある議論は、ものごと同士の同質、異質を程よく扱ったものであることも多い。そのような意味で、筆者の問題関心が有効となるためには、同質的なもの、異質的なものをより集積するに「親和的である」とされる方法論の「理念型」を設定している、という「前提」も忘れてはならないことである。簡単に言えば、実際にあるか、ないかは別として、(あるだろうと仮定される)モデルを想定することにより、そのモデルを現実と照らし合わせて、考察する、ということである。以下の考察では、論の有益、無益は無視するとして、これを踏まえたものではなくてはならない。

     まず、同質的なものが多く取り上げられるような論理構造について考えよう。
     ここでまず挙げられるべきなのは、レヴィ=ストロースが提唱し、人類学をはじめとして後に多くの学問分野に影響をもたらした構造主義であろう。構造主義は、ヨーロッパ文明を頂点とする自民族中心主義を見直す立場から、先進社会に限らず、未開社会などにある現象の構造に注目し、その構造を拾っていく。そうすると、未開社会の野蛮とされるような表象も、ヨーロッパの進んでいるとされる文明にある表象と同じ構造をしていることが見えてくる。つまり、ここでは、共通する意味、機能、因果関係などが見つけられることになる。
    また、構造主義に先行する方法論として、初期社会学者のゲオルク・ジンメルの形式社会学も俎上に上がるものである。ジンメルは、「全ての人間の社会は、内容と形式に区別することが出来る」とし、「社会とは諸個人間の相互作用である、と言い得るならば、この相互作用の諸形式を記述するのが、「社会」を最も狭い、最も本来の意思に解した場合の、社会学の問題ということにな」ることを提唱した。要するに、内容を捨象して、社会化された、対象に共通する(諸相互作用の)形式を分析するのが、形式社会学の方法論である。
     このようなものの考え方を見ると、それは、中身をそぎ落とし、骨組みを浮き彫りにすることによって、対象を考察するという方法であることが分かる。そして、これら方法の要点は、議論の抽象度を高くすることにある。抽象度を高くすることによって、余分なもののトーンを落とし、より包括的な議論を展開することができる。その議論で扱われる内容は、意図的な抽象をしなければ見えてこないものといってもいいだろう。つまり、マクロ的な視点を持って、形式なり構造を見る、ということである。距離を置いて見ることで、差異の部分は主張の弱いものになっていき、同じ部分が目立つようになる印象、と例えてもいいだろう。
    (続く)

    interim report
    こんにちは。
    このブログは、一ヶ月に10つの記事を書くことを目安にやりくりされています。内容は、一般的なものに、を気をつけたかったのですが、そのようになっていない、というのが現状なようです。
    けれど、僕と同じような領域に興味を持つ、ごくごく少数の方に対しては、少しでも有用な情報になっていることを望むところです。

    さて、ここに来て、目標が頓挫してしまうという状況になりそうです。というかなっています。
    それなので個人的な事情で、ここ二三ヶ月は、更新が滞ることを予め言っておこうと思います。
    勿論、書きたいことは山ほどあり、幾つかのテーマでは、それを書いている状態ではあります。しかし、それも、一朝一夕にできるようなものではなく、しかも、時間を収奪されるような環境になりつつあるので、上記のような状態になっている次第です。
    しかし量的なものはなくなりますが、更新は少しながらしていくので宜しくお願いします。
    エルネスト・エベール年譜


    エルネスト・エベール(Ernest Hébert 1817-1908)は、新古典主義の流れに属するフランスの画家。関連書籍やweb検索にヒットする数などを見ると、やはり日本では、同時代の新古典主義画家たち(ブーグロー、カバネル、エネル、ジェロームなど)と比べても、かなりマイナーな画家に属するのだと思います。
    しかし、パリと故郷のラ・トロンシュ(イゼール県)には、彼の個人美術館があり、特に、パリに国立の美術館があるというのは、彼がそれなりの地位を持った画家だということだと思います。
    それは、彼のキャリアを見れば一目瞭然で、サロンでローマ賞を得て、アカデミー・ド・フランスで学ぶという、まさに一流画家の王道を通り、さらには、そのアカデミー・ド・フランスの院長に二度も就任しているという肩書きは、新古典主義の巨匠アングルにも並ぶものです。
    エベールの絵の特徴は、新古典主義の精確な、そしてスマートなデッサンをベースとして、柔らか味のあるマチエールで、とても幻想的な感じを醸し出していることだと思います。
    これは、当時流行したオリエンタリスムの影響や、エベールが多くの時間をローマで過ごしたことで、彼がオリエンタリスム画題を主題にすることが多かったことにも求められるかと思います。彼の描く女性像は、異国の神秘的で、妖しい雰囲気を漂わせています。
    エルネスト・エベールについては、残念ながら、知る範囲では、web上で読める日本語文献はほとんどない状況です。このブログでは、僕がパリで仕入れた『Ernest Hébert Entre romantisme et symbolisme』(ラ・トロンシュの方の美術館のカタログらしい。パリの美術館の方のカタログは必死で探したもののありませんでした)から彼についての情報を紹介していきたいと思います。まず、ここでは、基本情報となる年譜を載せます。また、フランス語の文献を訳しながら読んでいる状況なので、情報に絶対の確信が無いことを断っておきたいと思います。また、その都度、情報は更新されることがあります。


    1817 11月3日、アントン・オーギュスト・エルネスト・エベール、グルノーブルにて誕生
    1827 バンジャマン・ローランのアトリエに通う
    1834 パリへ赴く
    1839 ローマ賞を得る
    1840‐45 アカデミー・ド・フランスの生徒としてローマ留学
    1848 パリに戻る
    1850 「マラリア」をサロンに出品。国家買い上げとなり成功を得る
    1853 レジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)受章
    1867 アカデミー・ド・フランスの院長に就任(‐73)
    1874 パリに戻る
    1882 パリの美術学校の教授に就任
    1885 再び、アカデミー・ド・フランスの院長に就任(‐90)
    1890‐96 ローマに滞在
    1903 レジオン・ドヌール勲章(グランクロワ)受章
    1908 11月4日、91歳でラ・トロンシュにて死去


    last update:04/11/2012
    「ヴェニスの商人」の映画
    年末に故郷に帰ったときに映画を見た。はっきり言うと映画館で見るというのは、個人的には非常にまれなことで、ジブリ作品を主に家族と見るか、たまに散発的な用で見るかに限られている。ちなみに、もう地元には映画館がなくなる模様、というのを聞いた。

    「ヴェニスの商人」はご存知、ウィリアム・シェイクスピアの作品。今回が初映画化ということらしい。恥ずかしながら、シェイクスピアは、作品タイトルだけなら知っているが、実際に読んだのは一作品だけで、非常に語るにはお粗末な状況である。

    あらすじは、ここに書くまでもなく、他に用意されているので省く。
    物語は愛や友情といったものから見ることもできるが、やはり一番こころに印象が深く刻まれるのは、宗教や人種の対立や差別などから発生する人間の感情のやりとり、だった。
    物語を批判的に見るならば、友情や愛、隣人愛を重んじるキリスト教の人々が、ユダヤ人の狭い心を持った金貸しの策略を破って、幸せを勝ち取る、というような結局、ユダヤへの差別に目をつむった、キリスト教万歳の反ユダヤ的な物語と解することもできる。
    しかし、そのような見方は、それなりの立脚点に立ってはいるが、一面的な見方ともいえるかと思う。
    僕が感じたのは、ヴェニスの商人もユダヤの金貸しも、どっちが正義でどっちが悪とも分からないような、言ってみれば曖昧な判りにくい感じだった。
    結局、金貸しのシャイロックは、最後まで復讐に走ったため、財産を失い、改宗を余儀なくされることとなり、ここには確かに勧善懲悪的な要素も見えるが、逆にこうまで彼の没落が描かれると、彼らに差別を行い、彼の正当な契約をも覆し、最高の屈辱を与えた、ヴェニスの商人サイド(キリスト教社会)への不信感や、シャイロックへの同情、社会の不条理まで感じてしまう。つまり、反ユダヤが描かれているだけに、逆に、キリスト教側の問題をも提示しているということだ。
    だが一方、ヴェニスの商人、アントーニオや、彼の友人の貴族、バッサーニオの間の友情が堅く、美しく描かれる姿、その友情に打たれて活躍するポーシャの姿は、やはり人間味のあふれる豊かな感情を存分に示している。ユダヤ人を迫害したものの、友情を裏切らず、最後には命を狙われた相手に慈悲を与えるアントーニオは、別の人間に生まれ変わったようで、さとりに至っているようにさえ見える。
    映画のコピーにある、「心に宿して美しいのは、憎しみよりやさしい愛」という言葉だけでは、表せないようなことがらを多く感じさせる映画だと思う(勿論、愛は大きな要素になっているが)。それはやはり、シェイクスピアの時代とは異なっている、宗教が大きな歴史的な問題を持ってしまった現代から、この作品を見ているからだと感じた。

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