芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • 小松未歩 miho komatsu 4 ~A thousand feelings~


    小松未歩の4thアルバム。個人的にも、このアルバムは小松未歩の数あるアルバムの中で、まず上位にノミネートされるものの一つです。
    全体的に、#10のタイトルが示す通りに、「哀しい恋」をうたった曲が目立ちます。まあ、小松作品はこのようなテーマ、基調が結構ありますが。
    それなので、特にこのアルバムは、メジャーコードでポップなのはないですね。マイナーな、雰囲気あるメロディに、小松未歩の独特な詩がマッチしていて、聞く側にもメッセージを残すような音楽が多いと思います。

    好きな曲と、その歌詞を少し載せます。

    #05「I don’t know the truth」  「いつか/これが幻想(ゆめ)だったという日が来ても/なげかないわ/当たり前のことよ/これ以上は無いから」
    #09「幸せのかたち」  「誰だって/過ぎた月日に戻って/やり直したい場面がある/だけど正しい道が分かんなくて/こぶしを机に打ち続けた/完璧なんて事/求められてないのに」
    #10「哀しい恋」  「思い出は/いつまでも美しく/記憶はすり替わってく/でもありふれた人生を彩る/スパイスになれば/ときどき振り返るのも/きっと大事なこと」

    その他も「あなたがいるから」など良い作品が集まっています。
    僕と違って、人生経験が豊富な人が聞けば、もっとしっくりくるんだろうなというような詩ばかりで、このようなところは小松未歩の作詞の素晴らしさを実感するところです。

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    ピエトロ バルコーネ 武蔵野店
    チェーン店のイタリアンレストラン。
    武蔵野店(三鷹)は、広くて、明るく、にぎやかな感じ。
    ランチは、サラダ、パンバーと、パスタで1050円。パスタは、そこそこの普通の味なのだが、ここの店は、何よりも、パンが美味しい。だいたい十種くらいのパンがあり、焼きたてを持ってきているし、それが食べ放題なのがとても良い。サラダの方も、いろいろなトッピングとドレッシングを用意しているので、楽しめる。
    量食べたいときはおすすめ。
    社会とは何かについての周辺
     社会学を学んでいく過程で析出された問いについて書いておきたい。ここでは、全く根本的な問題であるが、社会、またそれと個人の関係について。この問題は、社会学そのものであり、社会学者がいればそれだけの考え方があるような非常にひとつの結論を見出しにくいものである。以下では、そのような定義というよりも、前提問題として、どのように社会を仮定し、考察を進めるかという、アプローチについて考えたい。

     そして、ここに挙げるものは社会学上の問題ではあるが、個人的興味という点で私的な問題であり、問題群を整理し、それらの連関を見出し考察を進める、という性格も帯びている。だが、社会と個人に関わる以上、われわれの日常生活から切っても切り離せない広い問題でもある。
    また、断っておくが、社会学的といっても、完全に大社会学者の理論に乗っかって、理論的整合性を目指そうとはしていなく(とはいっても、焦点を当てているデュルケムについては丁寧に考えたい)、あくまでも、一般の人が持つようなイメージや、リアルな日常世界などの要素を鑑みることを重視したい。この意味からも、理論がまとめられた社会学概論的な本などから新しく参照しようとは思わないし、それなので、今ある浅い知識しか参照されていない。


     自分の社会観で、これだけは外せないという要素、考え方を列挙する。

    1.社会を構成するのは諸個人である。しかし、諸個人の総和は社会とはイコールにはならない。

    2.そのイコールにはならない要素にこそ、社会、社会的と呼ばれるものがある。

    3.日常における対面的なコミュニケーションなど、少ない人数間における相互的な関係から社会的なるものは見出せる。これは、ジンメルのような初期社会学者や、アメリカ社会学にも広く共通した見方である。

    4.社会は個人に対して上部的概念だと思うが、絶対的権威性を与えるような見方には賛成しかねる。(後期デュルケムのような、一部からは形而上学的ともいわれるような社会の概念化はやはり問題が残るかと思う。)

    5.社会は実在的、有機体的であるような古典化されたような見方からは離れる。社会の存在は個人の意識においてのみ確認される。つまり、2の要素を実感したときに、それを社会(的)だと思うのであって、個人に外部的、独立的にあり、様態変化しているわけではない。機能要件を考える社会システム論的な機能主義的見地もここから派生して言えるといえる。

    6.根本となる社会的要素は、デュルケムのいうように道徳(力)であると思う。この道徳は、勿論学校の道徳科で扱うようなものではない、より広域的にある、個人意識に外部的に持たれる力である。この道徳とラベルできるものから、さまざまな社会的事実が発生していることは明白であって、これこそデュルケムのいう外部的拘束・規制の機能を第一次的に持つ。人間は、いかなる社会的場面においても、その影響下にある。

    7.個人がまず感じる実質的な規制力というものは、ある個人、集団が及ぼす権力である。権力、権力性は、極めて、日常生活において重要な現象である。このようなある特定のものから発生する力も、道徳力から権威性というものが派生し、それが個人に内面化されていく過程を通して、彼に心的エネルギーが生ずることに端を発する。これが、権力の遂行を助ける。この意味からも、ただの暴力の行使は権力の行使とは違うかもしれない。それは動物においても見られる現象であって、社会的事実として権力を見るならば、例えば、暴力の行使がなされる際に見られる、諸現象に注目すべきである。それはヴェーバーがいうような服従の問題や、権力の行使の結果もたらされた結果などであろう。
     社会学の辞典には、権力は広義には、「社会関係において人間の行動様式を統制する能力」とある。これは限りなく、ここで提示する道徳力の定義に近いし、おきかえても通るほどのものである。上で挙げたデュルケムのいう外部的拘束力の考え方から派生する概念とも一致する。このような浅い考察からも、道徳、権威(ここから生じる敬意、尊敬)、権力はかなり密接な関係にあって、それは非常にここで社会と捉えるもののひとつの具体的内容を示しうる。

    8.デュルケムは、この道徳に関する考察を深化する形で、その源泉を宗教に求めた。このような理論には基本的に賛同しうる。しかし、すべてを宗教的なものから引き出すのには無理があると思う。宗教のモデルを上手く適用することで、ある社会的事実の説明がつくということに要点を置きたい。その意味で、宗教的概念から演繹的に理論を作り出すのには反対。

    9.宗教の問題から出される聖俗概念(または個人の聖性)について。この二分法は現代社会を考える際も重要になってくる。ここでは長くなるので、詳述は避ける。また、聖俗に加えて、遊びの概念を取り入れ、三要素とするような見解もあるが、この考えの大本にあるホイジンガの論文の最初をさらっと最初だけだが読んだ感じでは、大いに疑問であった。

    10.デュルケム社会学を学ぶ上で避けては通れない、集合表象と個人表象(社会的事実は個人に対し外在するか否かに関わる問題)のカテゴリの有効性・無効性、アノミー(社会がより個人化されていく過程で生ずる個人の無規制状態)について。前者の問題については、現代的な視点からすれば無効と判断されるものだろうが、ここには社会行為を捉える上で重要な問題がある。これも長くなるので、この場では問題を挙げるに留まるべきだろう。

    11.社会を見る切り口として、このブログでも、筆者はときに多用する傾向があるが、同質性と異質性というものを設定している。この切り口は、理論的にどこからひっぱってきたというか、多分にリファーしたということはないので、個人的な見解にすぎず、よって弱い理論的構造しか持っていないかもしれない。だが、人の行為を見るとき、なぜ、それらが異なる様相を示すのか、逆に、なぜ同じ様相を示すのか、ということは大いに興味をそそる事実である。それはごく当然のことがらについても、である。これは、心理学、実践的な社会心理学や人間行動学でも主要な関心になっていると思う。また、幾つかある方法論的アプローチによって、それが異質性を集積する、また同質性を集積することに親和的であるように感じるときがある。この問題は、方法論の領域にも及び、バイアスを生じさせているのではないか、ということも個人的に思っている。

     議論が脱中心的になりつつあるので、ここら辺で止めておこう。
     このように整理のために問題を列挙してみると、あるものが、社会、社会的である、というのは、かなり便利な言い方だと実感するばかりだ。この現象は社会的だ、社会化されている、というのは、説明不可能、説明困難なものを前提として、それを隠しながら問題を設定していることにもなっている。ここに挙げた、前提概念や、問題群を出発点にして、考察を深めていきたい。

    PASTA FRESCA   パスタ フレスカ
     吉祥寺南口側のこじんまりとしたレストラン。それとイタリアのオールドテイストな地図が欲しくなったのはこの店の影響です。
     ここは手作り生パスタのお店です。普通の生パスタでうっている店とは一味違い、ここのは本当にその店の「手作り」ということを実感できると思います。感じとしては、細いスパゲッティタイプの麺でなく、フェトチーネというか、うどんのきしめんのような感じの麺です。やはり初めて食べると不思議な感じ。一回試す価値は大いにあると思います。量はないので、そこら辺は注意した方がいいかも。
    2005年の展覧会を振り返ろう


    ピックアップする展覧会として、

    西洋美術館 「ラ・トゥール展」 「ドレスデン国立美術館展」
    東京都美術館 「ミュシャ展」 「プーシキン美術館展」
    ザ・ミュージアム 「ベルギー象徴派展」 「モロー美術館展」 「スコットランド国立美術館展」
    近代美術館 「ゴッホ展」
    損保美術館 「17-19世紀仏絵画展」
    世田谷美術館 「ゲント美術館展」
    三鷹市美術ギャラリー 「クールベ美術館展」
    森アーツセンターギャラリー 「フィリップス・コレクション展」

    趣味が限定されている方なので、そんなに行ってないとも思いましたが、それなりにいっていました。並べてみると、本当に良い展覧会ばかりです。それから、個人的に念願のパリに行って多くの美術館を周れたということで、とても収穫の多い一年だったと思います。それと、行き逃した展覧会としては「ルーヴル展」。ルーヴルにある作品だからといって、ルーヴルに行けば見られるとは限りませんし、今度からこういう逸機は気をつけたいです。

    まず、個別画家をピックアップした展覧会が、やはり質が高かったですね。ラ・トゥール、ミュシャ、モロー、ゴッホ、クールベと錚々たる大画家。
    特に、近代になって再評価されたジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの展覧会は、今ある彼の作品をほとんどを取り上げ、さらに模写などの関連作品も多く集めたという点で、かなりメモリアルな展覧会でした。もうしばらくはこういう機会はないでしょう。
    また、ミュシャ展では、彼の油彩の素晴らしさを実感しました。ミュシャは有名なリトグラフよりも、唯一無二の油彩あるいはテンペラ、グアッシュなどの方に魅かれますね。それと彼のデッサン力は相当なものでした。感服しました。
    行った時期も悪かったのですが、ゴッホ展は一番見る環境になかった展覧会として今でも記憶に鮮明です。
    最後に、何気に貴重だったのが、「クールベ展」。オルナンのクールベ美術館の作品などそう簡単に見られるものではありません。作品は大作やインパクトの高いものは少なかったかもしれないけれど、とても良かったです。

    それ以外は、ベルギーの絵画を知る良い機会になった「ベルギー象徴派展」と「ゲント美術館展」。前者は特にテーマを絞って有名な象徴派の作品を軸に、一味違った幻想性、神秘性を感じられる展覧会、後者はフランス美術との係わり合いを良く説明しながら秀作ぞろいで流れを追った展覧会でした。仏英以外はあまり名が知れてこないのが常ですが、ここでは多くの素晴らしいベルギー画家の作品が確認できました。それと、ドレスデン展では、ドイツ・ロマン主義画家を知る機会でもありました。

    近代以降の最高レヴェルのコレクションを持つ展覧会として、「フィリップス展」「プーシキン展」がありました。それと次点として「スコットランド展」、ファーブル美術館の「17-19世紀仏絵画展」も入れても構わないでしょう。
    これらの展覧会では、やはりフランス近代美術の偉大さが示されますね。「スコットランド展」は、半分はイギリス絵画ですが、英仏どちらもクオリティが高かったと思います。「17-19世紀仏絵画展」のファーブル美術館は、印象派以前、「プーシキン」では印象派以後が見所で、両者を合わせるとフランス画壇の一流どころがほとんど見られた感じです。

    最後に、僕が個人的に挙げるベスト。ピクチュアは断りがないのはレヴューの方にアップされています。

    ・ミレイ「優しき目は常に変わらず」 (「スコットランド展」)
    ・ミュシャ「眠れる大地の春の目覚め」(「ミュシャ展」。画像無)
    ・ミュシャ「百合の聖母」 (〃)
    ・カバネル「アルベテ」 (「仏絵画展」)
    ・クールベ「まどろむ糸つむぎ女」 (「仏絵画展」。下図)
    ・ミレー「牧神パンへの捧げ物」 (「仏絵画展」。画像無)
    ・モロー「一角獣」 (「モロー展」)
    ・フランス・ヴェルハス「お絵かき上手」 (「ゲント美術館展」)
    ・ルノアール「舟遊びの昼食」 (「フリップス展」)
    ・ラ・トゥール「マグダラのマリア」 (「ラ・トゥール展」。上図)





    ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの絵画


    ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(1849-1917)はラファエル前派の流れに位置づけられるイギリスの画家。
    その筋では結構人気がある画家のようで、絵のプリント類は画集コーナーとかでしばしば見かけたりしますし、ネットでも体系的にまとめられたりしています。僕もこのように出回っているヴィジュアルを通して彼の絵を知ったわけで、実際には見たことがありません。これからの対面を期待して、最も注目している画家の一人です。

    ウォーターハウスの描く画題は、ほとんどが神話主題や何らかの寓意を持った女性画です(一部はファム・ファタルという一般名詞でも表せるでしょう)。
    確かなデッサンと、精密な描き込みは、彼が影響を受けている、イギリスの新古典主義、ラファエル前派などと共通するものです。綿密な描写をしながらも筆触を残しながら描く感じや、ある種理念化された女性像の表現などはラファエル前派チックです。純粋な技術を持つ画家としてフランスの新古典主義画家のジャン・レオン・ジェロームを僕は一番のグループの中の一人に推していますが、1880-90年代の作品の幾つかはこれに匹敵するのではないかというような表現ですね。
    そして多くある魅力の中で一番ひきつけられるのが、きちんとその瞬間の場面を描く、という構成力ではないでしょうか。ここしかないような決定的な意味を呈示する場面が描かれているからこそ、見る側もはっとさせられる緊張感を感じるのだと思います。そのために、人物の配置、背景の構成などは勿論、キャンヴァスの大きさにも留意を置いていることも明らかです。幻想的、ユートピア的な色調と表現に独特の妖しさが漂うウォーターハウスの絵は、その点では他の大画家と比べても群を抜いている感を持ちます。

    彼の絵を直接見たいところですが、調べてみると主要な作品はほとんどがプライヴェート・コレクション。何故なんだろうか、と思うほどに個人蔵の非公開作品が圧倒的に多く、少し残念なところです。このような状況がある中、比較的数を持っているのが、ホームのイングランドの美術館、ロンドンのテイト・ギャラリーやリヴァプールのLady Lever Art Galleryなどの幾つかの美術館です。ウォーターハウスはそんなに寡作な画家ではなく、作品は結構あるのにこの点は気になりますね。ヴィクトリアン・アートの展覧会を待つか、直接行くかしか選択肢はなく、このように、日本の美術館が(フランス美術などと比較したとき)イギリス美術に弱いのは一つの弱点ともいえます。

    直接は見れなくとも、作品を網羅した素晴らしいサイトがあります。
    http://www.johnwilliamwaterhouse.com/
    ここで、ほとんどの用は足りるといって過言ではないくらいですね。
    また、海外の出版社ですが複数の画集が手に入ります。
    やはり、エルネスト・エベールのときのように、直接の対面は至難なようですが希望は持ちたいと思います。
    ファッション論脱線
    しばしば面白い話題になるのですが、女性ファション誌の表紙にある文言。
    当の女性からはどうか知りませんが、男性から見ると本当に(失礼ですが)笑ってしまう文句ばかりです。ちょっと見てる方が恥ずかしいような、一体実態はどんな服装なんだ、という感じで。
    そのような雑誌が幾つもあり、全てではないですがファッションを支えているわけです。
    勿論、男性向けもあるわけでして、こちらも見ていて飽きないインパクトを与えてくれます。
    では、何がオシャレになりえるのか。以下は、ファッション雑誌に毒されていない一個人の偏見です。

    1.皆と同じような服装ではない。
    2.その人にドンピシャな格好ではない。
    3.しかし、明らかにNGは論外。
    4.その人(のイメージ)との調和を著しく乱さないこと。
    5.ルーティン化された着まわしをしていないこと。

    これらは、基本要件だと思います。皆と同じような服装ではオシャレ認知は受けにくいでしょう。これは、「何着ても似合う」というレヴェルの人限定の話で、服装の要因は介入しづらい。次に、その人に、あまりにもしっくりきた格好では、これまた駄目です。それは、固定化されたある見方に、はめられているに過ぎないだろうからです。いかに、他者の期待を裏切りつつ、それを評価に結び付けられるような認知を受けるかがポイントで、それを達成するならば、「ハズし」が大切。一目で駄目なレヴェルまで触れずに、他者からの印象をハズせるか、が重要な要素です。
    だから、普通の良識を持った人から見ると、「あんまり似合ってない」と評価されるような服装でいいのです(それか、他の人には論外だけど、その人にはある程度「似合う」か)。「はっちゃけ」がなければ、オシャレは成立しないというのが僕の見地です。ブランド物を着ているからオシャレというのはやはり賛同しにくい。確かに、ブランドが確立されているだけに、デザイン性があったりすることには賛成しますが。
    勿論、これは奇抜な格好をすればいいとか、原色系でいけばいい、とかそういうことをいっているわけではないです。ここを曲解すると、4の要件を無視する方向へ繋がり、相手に無用な感情を抱かせてしまったりするからです。やはり、まじめ君がいきなりダブダブなトレーナー着ても始まらないでしょう。そこは、その個人と調和のある方向性からのハズしが前提にあるわけです。そして、最後に服装が固定されてくると、「はっちゃけ」はマンネリになり、その機能は役割を終えることになるでしょう。
    おそらく、一番大きいのは、差異化欲求を前提にした議論ですが、その集団内で、他者と同質的にカテゴリされるような印象になるのを避ける、というのが身近にある第一段階になると思います。差異・同調化欲求のバランスという、この辺の議論は、厳密にはより難しいのですが。

    駄文を並べました。これも「一興」ということで考えてみました。
    要は、中身・内容です。ここを忘れたら仕舞いですね。
    小沢健二 「dogs」


    旧題「犬は吠えるがキャラバンは進む」。
    フリッパーズ・ギター解散後、ソロに移行した小沢健二のファースト・アルバムです。

    前後の、フリッパーズ・ギターの音楽や、セカンドの「LIFE」などを聞いている限りでは、想像できないような印象をまず受けます。
    アップテンポのはじけていて、ノリのいい音楽とは違った、シンプルで、力強い、メッセージ性の強い音楽だと思います。
    特に、この作品の詩は小沢健二の作詞の中でも特に惹かれます。
    綺麗な詩や、小沢健二独特な言い回しは興味深いですね。
    例えば、「ローラースケート・パーク」の「ありとあらゆる種類の言葉を知って/何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ」というところなんかは心に残ります。
    また全体を通して、「神様」という語が幾度か出て、独特な基調を作っているのも指摘できます。
    「天気読み」 「雨の降るこの星では/神様の待つこの場所では」
    「ローラースケート・パーク」 「神様のいるような時間続く」
    「天使たちのシーン」 「神様を信じる力を僕に/生きることをあきらめてしまわぬように」
    そして、この「天使たちのシーン」は本人も大切にしているということで、聞き手にもそれなりの感情を持たせてくれる曲だと思います。
    周りの情景を美しく淡々と描写してくような詩から、最後に、上の確信的なフレーズへと繋がり、終わっていく流れは、皆に「感動的」と評されるのも納得です。

    「LIFE」や「刹那」に見られない要素を持っている作品であり、「小沢健二」の出発点として聞き続けたいアルバムです。

    Thanks to tabelin
    ショパン 「ワルツ集」 ゾルタン・コチシュ
    クラシックには疎いし、ピアノはできないけれど、小さい頃に聞いたことがあるのがショパンのワルツ。
    というのも、姉がピアノを習っていて、その家での練習を聞いて、覚えてしまっただけなんですが。
    ということで、ショパンのワルツの幾つかは、全く意識はしなかったけれど、心の中では意外に歴史のあるものかもしれません。

    ショパンのワルツは、従来のゆったりとしたリズムのもの以外にも、速く技巧的で、聞かせるタイプのワルツがあるってことがワルツは踊る曲だと思い込んでいた、疎い身なりに関心を持った点です。
    最も有名なものの中の一つの「華麗なる大円舞曲」や4番「華麗なる円舞曲」、「子犬のワルツ」などは、ピアノの発表会のレヴェルで聴けばゆったりと聞こえるかもしれませんが、やはりそれなり弾く人の速さはピアノできない派にとっては革新的です。
    それと「子犬のワルツ」は「ワルツ第6番変ニ長調 作品64の1」の通称ですが、海外では「Minute Valse(仏) Minuten Walzer(独)」というように、日本では当たり前に定着している「子犬」よりも「Minute」ってことが前に出されているもの興味深いですよね。「Minute」、つまり「分」や「ごく短い間」を意味する語がついているワルツで、その名の通り短い小品ですが、子犬が自分の尻尾を追いかけ回している情景になぞらわれる特徴的なメロディや、このメロディが、中間部が終わってトリルからより一オクターヴ低いベース音から始まるところ、なんかは気に入ってます。とにかく、プロの弾きこなしは、今でもハンパないなと感心するばかり。

    僕は、ハンガリーのゾルタン・コチシュによるワルツ集しか持ってなく、他にも、ルービンシュタインやアシュケナージといった人の名盤や、ラヴェルの演奏を聞いているサンソン・フランソワのものなど各種あって、ショパン好きはどれがいい談義をしてるみたいですが、僕も機会があったら少し聞き比べてもいいかなと思います。前出「ベストピアノ100」で別の演奏家の「子犬~」を聞いたときは断然、コチシュだろうと思いましたが。完結部の表現とか結構差が分かるものでした。
    …全く、クラシックやましてショパンなど語る身ではないのは重々承知してますが、たまには疎い方面についての身分不相応な戯れ言を小学生の読書感想文のノリで書いてみた次第です。いや、音楽の感想は、そのものを良く知っていても知らなくても難しいですね。
    ブラームスのワルツと「ふたりのロッテ」
    ヨハネス・ブラームス(1833‐1897)は、ドイツのロマン派とみなされる作曲家。
    僕は、詳しくもないし、さほど聞いてもいないのですが、イメージでいうと、交響曲や、ピアノや弦楽の重奏、歌曲が多くて、あまり僕の好みにはいってこないな(こういうイメージは図書館のお陰です…)、というのが正直なところでした。やはり、ピアノソロの方が、しっくりとくるんですよね。
    勿論、調べてみると、ピアノソロ作品(連弾も含んで)もそれなりにあるわけで、それをブラームスと知らずに聞いているわけです。また、調べていくうちで知ったことですが、シューマン家と密接な関係があったそうですね。

    そして、知らずに聞いていた、という経験の最たるものが、ブラームスのピアノ連弾曲の、「ワルツ集 op.39 no.15」でした。
    僕はこれを、「ベスト・ピアノ100」で聞いたのですが、聞いた瞬間、「ふたりのロッテ」のテーマ音楽であることが想起されました。
    この「ふたりのロッテ」というのは、昔やっていた世界名作劇場系のアニメの一つで、「わたしとわたし ふたりのロッテ」というのが正式名称で、原典はドイツの文学作品です。
    この夕食時間帯の世界名作系のアニメは、チャンネルかかわらずよく見てました。記憶にあるものとしては「シートン動物記」や「フランダースの犬」、「ブッシュベイビー」、「ティコ」とか。それに、枠を広げれば、「ナディア」や「みつばちハッチ」とか、「おーい竜馬」とかいれてもいいんじゃないかな。

    そして「ふたりのロッテ」、このアニメに使われていたのがブラームスのワルツ。
    番組の内容はほとんど忘却しましたが、曲っていうのは、心に残るものですね。似たようなアニメの「おちゃめなふたご」テーマ曲の歌詞に「勉強はできるうちにしておいたほうがいいわ/後になって気付いたって遅いわ」っていうのがあったのも印象に残ってますし。本当に教訓的な良い歌詞です。
    ブラームスのワルツはどれも短い作品ですが、本当にロマンティックなメロディーです。構成は、主題を繰り返していって、単調ともいえそうですが、そのように感じさせず、綺麗な和音で気品を感じさせるのは、やはり素晴らしいところ。
    ギターで弾きたいと思って、参考楽譜を集めて、編曲してしまったほどです。原曲はフラットがいくつも付いてるので、半音下げれば簡単にできると思いつや、「禁じられた遊び」よろしく、最後の方は、高音になっていき、運指がつらいんですよね。

    このワルツの15番を機に、ブラームスは改めて良いところを発見した作曲家なので、身近なところから聞いてみるつもりです。
    それと、名作系のアニメも、「むかしばなし」の再放送ではないですが、小出しにやってもらえるといいんじゃないかな。