芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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    自己象徴としてのファッション
     大きく流行というものをとらえるとき、往々にしてそれは服飾についてだろう。流行という語のもと、服飾・服装というものは特別な地位を与えられている。
     流行を形成するものとしての服飾文化を考えるのも興味深いのだが、ここでは、流行、アイデンティティなどの諸形相において、この服飾が相対的な特別性を与えられているという事実に対しての考察を少しばかり展開したいと考えている。

     まず、服飾によって、多少なりともアイデンティティを表出させたいと、「意識的に」考えているひとは、服飾の機能的要素の中でも、いわば第三次的な要素を重視しているということである。つまり、寒さを防ぎ、露出を避け、ある社会的場面の規律に従う、というような、生理的な要求や道徳的な要求の次元には完全に収まらないような要素であり、それは、自分らしさを可能な限り視覚的に表現する、という要素である。
     ここで、注目すべきは、服飾が視覚的に自らを象徴しえる、という点だ。「自分らしさ」を語るとき、それは所属だったり、性格・癖・習慣だったり、趣味・嗜好だったりする。しかし、これらは、対面的に他者と出会ったときには不可視的で、分からない場合が多い。しかし、服装はそれ自体が可視のものであり、何らかの社会的な意味づけができうるものである。要するに、第一段階での印象管理をしようとする場合、そこには服装の管理という要素が自然と入ってくる。この意味で、服飾は、「自分らしさ」というものを現前にある人たちに直に呈示しえる、即効的なツールになっている。
     さらに、服飾は、このように、そのものを自分の立場から客観視できるので、他者との差異を確認することがきわめて容易なものである。これは、他者に対する自己の呈示という問題意外に、他者とは異なる(または同じような)自己の、自己への呈示という問題も含んでいる。服装を通じて、自分の個性なり趣向を確認し、それによって、自分の社会的な位置づけや、他人との差異・同質を決定しているのだ。
     まとめるならば、服装に関する問題は、「自分らしさ」の他者への呈示と、自己への呈示という両側面を持っている。このような、アイデンティティ形成・確認に重要な役割を服装が負っているからこそ、冒頭の特別な地位を服装が持つに至っていると考えられる。
     こうした自己のある種の象徴化に対する服装の機能は、極めて、服装が社会的な意味合いを強く帯びている、ということを再認識させる。服装に対して、当事者である個人からの意味づけが可能なように、他者からの意味づけも、当然ながら可能である以上、意識的だろうが無意識的だろうが、選択された服装とその着こなしは、自分自身を表象するものとして、常に、社会的な役割を負ってしまう。だからこそ、この自立的なツールに対して、意識的、または無意識的に取り組むか、ということが個人の主要な関心として設定されるのであり、それは絶えず、社会的な文脈に対して重要な役割を果たしている。だが、個人は、いくら意識的に取り組んでも、完全に、服装をコントロールし、同時に完璧な印象管理を行うことはできない。それは、他者からの、ある服装に対する意味づけのマルチチュード(多数性、複数性)というものが、個人には支配できない領域としていつもつきまとうからである。この他者が持つ服装に対する夥しい意味づけの中の、異質性、同質性はファッションを捉える上でとても興味深い要素である。
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    スコットランド国立美術館展 Bunkamura ザ・ミュージアム


    スコットランドの首都エディンバラにある複合美術館、スコットランド国立美術館から、印象主義などのフランス絵画と、18‐19世紀のスコットランド、イングランド絵画を選んでの展覧会です。
    この展覧会でも、パリのアートの価値とその広がり、というものが顕著に見て取れます。また、この時期のイギリス絵画に個人的にても興味があるので、貴重な機会であり、大変刺激を受けた展覧会でした。

    展示は、イギリス、フランスの絵画をそれぞれのサークルにまとめて順に展示するものになっていますが、作品リストでは、Ⅰフランス絵画、Ⅱスコットランド絵画に大別して数字をふって並べてあり、カタログでもそのようになっています。実際の展示では、歴史の流れに沿って、それぞれの絵画潮流、表現形態を考慮して見られるつくりになっていて、作品リスト・カタログでは、まず国別に、次に画家別に整理し、その中で流れを持って見られるつくりになっている、ということです。

    入ってすぐに現れるのが、サー・ヘンリー・レイバーンの女性肖像画。スコットランドを代表する肖像画家として名高い、レイバーンは、ルーヴルのイギリス絵画部門で一度見たときに、すぐに魅かれた画家でした。彼の描く人物は、暗い背景から浮き上がってきて、柔らかな黄色い光を当てられ、とても崇高に見えてきます。今回の展覧会の作品も、とてもそのような崇高さと、緊張感を持った良い作品。また、これと、初期に描かれた、中佐の肖像画がありますが、こちらは、古典的な絵画技術にのっとった、細かいタッチでしっかりと仕上げられた作品です。
    また、最初のセクションでは、ホレイショー・マックロックという人の、風景画の大作が良いです。木、草木や岩などの描き分けが見事です。
    それから、同じ風景画では、アレキサンダー・フレイザー(子)の油彩画がすごいです。古典化されたタイプの木々を描くのではなく、ラファエル前派などの影響もあって、すごくリアルに、また精密に、木が生き生きと茂るように描かれています。まったくこのような技術には驚嘆するしかないです。

    さらに進んだ一画にあるのが、サー・ジョン・エヴァレット・ミレイの「優しき目は常に変わらず(“Sweetest eyes were ever seen”)」(上図)。はっきりいうと、この展覧会で一番の異彩を放つ、「一旦見ると前から離れられなくなる絵」です。
    ミレイの絵は、実際に見たことがあるのはほんの数点ですが、その中の油彩は、ラファエル前派に加わっていた時期のもので、一見水彩画のような感じの、下地をつくってから、精密な筆での薄塗りで描かれていく絵でした。しかし、ラファエル前派と決別してからの、この後期作品にあたる肖像画は、そのような絵画技法とは違う、大き目のタッチで、絵の具を厚めに塗っていく、油彩の特徴を良く生かした絵で、正直実際に見ると、ここまで画風が違ってくるのかと驚きました。肌のつくり方とかは違いますが、なんとなく思い返すと、クールベに見られるような、大胆さを伴う精確さを感じました。
    とにかく、圧倒されるほどの人物表現で、ここまでくると、描かれている人物も大きなファクターになっているのだろうと思います(子役俳優ベアトリス・バクストンとのこと)。勿論それを最大限引き出す画家の力量があるわけです。
    この絵の側には、スコットランド画家のジェームズ・アーチャーの子供たちの集団肖像画がありますが、こちらは、ミレイのラファエル前派期の画風が再現されています。このような、ラファエル前派お得意の0.数ミリという次元の仕事をこなすのは、真似しようと思って画風を獲得できるものではないと思います。やはりジェームズ・アーチャーの才能と力量あってのことでしょう。
    それから、スコットランド画家でミレイの影響が顕著なのが、ヒュー・キャメロン。1959年制作の「干草日和」は、人物はともかくとして、背景の草むらはラファエル前派の影響を受けた、植物学的な精確さで描かれています。対照的に1881年頃制作の「キンポウゲとヒナギク(画家の娘)」はこのような描き方はしておらず、大きなタッチで絵の具を塗り重ねています。このような画風の転換は、ミレイの画風の転換におっていて、ヒュー・キャメロンはミレイの絵を研究していたらしく、彼の変化に伴い、自らの画風も変えていったみたいですね。

    フランスの画家の方は、バルビゾン派、印象派の主要な画家の作品が見られます。特にコローの4点はクオリティが高いです。クールベの風景画は、コバルトブルーに統一された色調が綺麗です。
    アンリ・ファンタン=ラトゥールは、花、桃を描いた小さな静物画が3点あります(下に1点)。どれも、淡々とした焦げ茶系統の背景に、対象が厚塗りで背景と対照的に塗られていることで、花や桃が浮き上がってきて引き立っています。肖像画も静物画も上手く描くんだなと感心しました。
    ジュール・バスティアン=ルパージュは、写実主義、自然主義においては屈指の影響力を持った画家。彼の描く子供は、性格や気持ちまで見てとれそうな飾らない子供の表情が良く表現できていますね。僕も子供の肖像を描いたことがある経験上、とても感心させられます。

    油彩はコメントは以上で、この展覧会には、水彩、パステルなど、油彩以外の画材で描かれた絵を集めたセクションがあります。同じ画家でも表現形態が異なると雰囲気が変わっていたり、それぞれの画材の長所が見れたりして、油彩との比較で勉強になるセクションでした。水彩では、デイヴィッド・ヤング・キャメロン「青白い光」とアーサー・メルヴィル「東方の情景」良かったです。前者は、空、山、湖が、緑がかった水色の筋で表されていて、それらが焦げ茶の木々から浮かび上がってくるような感じは幻想的です。後者は、水彩のたらしこみ、グラデーションなどの水彩独自の技法を駆使した作品で、描かれているのがオリエンタルな情景ということもあって、とても奇妙な、不思議な面白い作品になっています。

    今回の展覧会を考えると、2003年に開かれた「ミレー3大名画展」が想起されます。この展覧会は、オルセーを中心に各地から、良い18‐19世紀のフランス、イギリス、ベルギーを中心とする絵画を集めたものでした。
    それというのも、二つの展覧会で、ミレイ、クールベ、ドーミエ、ミレー、デュプレ、バスティアン=ルパージュ、ピサロ、ドービニー、ジェームズ・ガスリーと重なる画家が多く、コンセプトも似ているからです。
    この「ミレー展」が個人的にかなり心に残った、収穫の多い展覧会だったのと同じように、「スコットランド国立美術館展」も、自分の関心に良くマッチした、クオリティの高い展覧会でした。このような展覧会を一つの美術館のコレクションでできてしまうというのも、スコットランド国立美術館のコレクションの充実が良く伝わってくるところです。





    プーシキン美術館展 東京都美術館



    ロシアのモスクワにある、プーシキン美術館からのシチューキン・モロゾフ・コレクションによる展覧会。

    プーシキン美術館は、1912年にアレクサンドル3世美術館として開館、その後、革命を機にモスクワ美術館に改称、1937年にロシアの文豪プーシキンの没後100年を記念して、プーシキン美術館となったということです。コレクションは、古代から近代まで幅広く収集され、やはり世界的な美術館にふさわしいもののようです。
    冒頭の通り、この展覧会は、このプーシキン美術館の、世界有数のフランス絵画コレクションとして名高い、二人の美術収集家、セルゲイ・イワノビッチ・シチューキンとイワン・アブラーモビッチ・モロゾフが集めたコレクションを抜き出してのものです。このコレクションは、特に印象派以後の近代絵画の流れを網羅するもので、フォーヴやナビ、キュビズムに着眼して、コンセプトを明確に収集されている点は、とても先鋭的であり、同時にパリの美術への憧憬が伝わってきます。
    また、二人の膨大且つ良質なコレクションは、ロシア革命と共に、革命政府に没収され、美術館に納められたという経緯、両者共に外国へ亡命しなくてはならなかったという経緯もあわせて知っておく必要もあるでしょう。

    展示は、印象派からキュビズムまで、オードソックスに絵画潮流ごとにセクションを分けるもの。
    最初の印象派のセクションでは、ルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの庭で」(上図)が見所だと思います。初期作品の特徴をよく示した完成度のある絵で、大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」に行き着く作品です。構図的にも面白い作品で、前に立っている女性が明るくしっかりと、しかも後ろ向きに描かれていることで、奥のテーブルで談笑する男女へと奥行きを感じさせながら視点を持っていくようになっています。
    また、二点目の「黒い服の娘たち」は画風転換期の「硬い絵」の作品。やはりこの時期の作品は試行錯誤的な、模索的な作品という感じが個人的には強いです。人物描写も左右の二人で微妙に違ったり、硬く描くことで服自体の質感などがやや損なわれているような感もするし、背景のタッチは硬い線・タッチにあっているのかという問題もありますし。
    その他も、ピサロ、モネ、ドガなどの主要画家の作品があります。パリの街並みを描いた絵が多く、一回パリの街を歩いた経験を持つと、描かれている風景が分かってまた違う感じを受けました。
    そして、象徴主義のセクションで印象に強く残ったのはカリエール。「母の接吻」というタイトルで、カリエールにしては大きめの作品で、色彩に頼らず、温かみを醸し出すような不思議な作品です。
    さらに、この展覧会の目玉となっている、マティスの「金魚」(下図)も、異彩を放つ絵です。一応のところ、金魚蜂を描いた静物画として見れますが、このように金魚をコミカルにディフォルメし、周りに草花で装飾的に彩りを加えると、静物画というより、一種のデザインのように感じられて、とても現代的な視点を持ちうる作品だと思いました。

    さらにこの展覧会のセクションで重要になってくるのは、「フランス近代版画 マネからピカソまで」のセクション。これらは、直接シチューキンとモロゾフがコレクションしたものでないそうですが、諸画家・作品の理解を深めるために見る価値が大きいと思います。
    主な作者は、マネ、ルノアール、ゴーギャン、ロートレックなどで、数ある作品の中で、同じ版画という表現形態の下、単色石板画、多色石板画、エッチング、木版画といったように手法の違う版画があって、それぞれの効果の差異などが良く分かります。

    全体的に、印象派がメイン、目玉となる展覧会が多い中、それよりも、以降の近代絵画潮流がメインとなっていて、しかもクオリティは確証されている、コンセプトが明確な展覧会として、意義の大きい展覧会だと思いました。普通に混んでいるのも納得できます。
    また、印象主義以降の絵画を見ると、セザンヌの影響はかなり大きいな、と実感した展覧会でもありました。色彩の分割・不連続な組み合わせ、パースペクティヴの複数性などはやはり彼の功績が大きいでしょうし。
    これからも、世界の有数なコレクションの展覧会は是非期待したいと思います。



    つくられた世界観と心理的ダメージ
    「死に至る病とは絶望である」とは良くいったものだが、やはり人間の心理面でのダメージに対しての反応は興味深いものである。

    これまで安心して暮らしてきた住まいが、震度5強で倒壊する恐れがある、と診断されたことに自分自身が倒れてしまったり、直接攻撃されていないのに、勝手に邪険にされているイメージを持って殺人を犯してしまったりする人などは象徴的な事例として思える。
    心理的な動揺を誘う情報が与えるダメージは、「たかがそんなことで」というようなひとことで済まされないほどの力があるのである。物理的なダメージさえも、それは最終的には心理的なダメージへと行き着く。つまり、心理的なダメージは、物理的なそれと並置されるものではなく、より根源に行き着くダメージである。

    それは、自分が想定している世界を崩すという、生活上の根本を揺るがすものである。人間が安心して、「文化的に」生活を営めるのは、数多く存在する、幾つかの選択肢を伴う事がら対して、いちいち検証を与えずに選択したり、留保したりできるからであろう。つまり、ここでは、こうして、こうなる、というような予測・諒解が得られているからこそ、われわれはスムーズに行動ができているのである。
    このような、自分の世界観の根本的前提が一部でも欠けるということは、想像を超えるような不安をもたらすに違いない。その不安は、すべてを覆う絶望になりうるのだから。

    人間は、精神面での弱さを克服できないものである。それだからこそ、物理学的な運動法則や、経済学的な功利原則で図れない複雑な領域がいつまでもつきまとう。やはり、このような人間の特異性を捉えようとする方向性が近代になって発展してきたのだし、これからも主要な関心になりつづけるだろう。
    現代社会の倫理をめぐる諸問題の特徴
     現代の倫理をめぐる問題は、極めて、現代社会に特徴的な段階に至っている。つまり、それは、科学技術の発展に裏打ちされた、高度消費化・情報化社会、高度医療社会などという現代社会を特徴づける諸相に根ざす問題である。
     それ故に、多くの問題が、発展の裏返しとして生じ、その多くは、ジレンマ、矛盾といったものとは切り離せない。ある一部の階層、集団が求めることが、多くのものの一般的とされる道徳意識とぶつかりながらも、公的な承認を得ても、また得ずとも、ある種の生存権を与えられたままでいることが一般化さえしている。
     過去には実現不可能とされた人々の望みが最大化されて遂行されうる状況になったことで、そもそもの望みを否定できないというような領域に問題圏は広がっているのである。そして、その望みは、それ相当のアクチュアリティを持ってしまっている。
    このような問題は、往々にして生命倫理の問題に関係する。例えば、苦しまず自らの死を決めたいとする安楽死、妊娠できないが自分の子供が是非とも欲しいとする、人工的な受精、代理母やクローン技術などの応用、さらに子供を生む、生まないも自己判断できるという、中絶や着床前診断などの医療の問題において最も顕在化していることである。
     過去の倫理的な問題は、主に階層ごとの道徳的な対立という構図の元で争われていたように思う。現代とは格段の差で、経済的、社会的な身分が規定されていた時代においては、各階層、目的集団ごとの道徳、倫理というものが設定され、それも明確に個人に根付いたものであった。
     しかし、資本主義が発達し、民主主義が普遍化しつつある現代では、この各階層・集団の、アウトラインが多少なりとも明確に描かれた道徳規範というものが崩れてしまっている。資本主義という、人の際限ない欲望を前提とし、それを満たしていくことで自己増殖を進めるシステムの中で、その欲望は、実現可能性と、多様性の中の一つの価値という立場を与えられている。このような状況においては、各階層、集団の本質的な道徳規範の差異性は薄まっていく他なく、諸個人が、際限ない望みをかなえることへの潜在的な可能性を共通に持ち、その望みを持つことは肯定されるので、それは一つの価値観として否定し難いものとして存続し続ける。前述した生命倫理の問題はもちろん、インターネットなど情報技術に関するもの、性に関するもの、経済・市場などに関するものなど、どれをとったとしても、そこには一定の立場を持つ価値観が働いている。それらに関する問題群中で、法的な規制によって取締りができない領域、つまり、全構成員に提示されるルールに縛られない領域に関しては、繰り返すが、そこにある欲望は抗し難い力を持って追求され、遂行されていく。もちろん、法に規制されたとしても、非承認のレヴェルで、その欲望は存続し続けるだろうし、それらを規制しようとする法の力は、資本主義・民主主義という拡張的な前提を侵害しない中でしか働かない。追求される欲望には、それが本質的であるほど、打ち消せない、希薄化できない実効的な力がある。
     このような現実の中で、現代の倫理問題の解決は、突き進んだ欲望に関する価値判断を矯正するというよりも、その混在する諸価値判断の調整をするという役割をどうこなしていくか、ということに重きを置いていく他ないだろう。この意味で、近代社会になって問題化されたアノミー化は、現代社会になって、病理状態から正常状態へと移行した感さえ覚える。社会科学が根源に持っていた、社会の秩序化、病理の診断・矯正という意思は、現代社会にいたって、そのリアリティが薄れてしまっているところまで、今ある倫理問題はより深い問題を作り出してしまっているように思う。
    「カメラ・トーク」 フリッパーズ・ギター


    1989-91年という短い間に活躍した、小沢健二と小山田圭吾で構成するフリッパーズ・ギター(The Flipper’s Guitar)のセカンドアルバム。
    ファースト・アルバムが全て英語詞だったのに対して、こちらは、日本語で統一されていて、詞の随所で「カメラ・トーク」というタイトルを感じさせます。こういうところは小沢健二のコンセプトがあらわれているところでしょうね。

    前述の通り、ファーストは全部英語詞で、サードは方向性が転回しているような感じなので、シングル・コレクションなどを除けば、一番聞きやすいのが「カメラ・トーク」だと思います。実をいうと僕も、このアルバムを紹介されて、という入り方だったし。
    曲も、すごくはじけていてポップでおしゃれな、という形容の仕方でいいのかわかりませんが、つくりこんであります。
    マーチCMで有名な「恋とマシンガン」からはじまるのもいい所です。この曲は特にジャジーで、完成度も高いです。
    その他も、どれも良い、という感じなので、後は好みの問題かもしれません。その中でも、「カメラ!カメラ!カメラ!」「バスルームで髪を切る100の方法」「ビッグ・バッド・ビンゴ」「午前3時のオプ」なんかは定番。アップテンポな曲が多い中、さらっとした曲調の「青春はいちどだけ」「全ての言葉はさよなら」なども個人的に気に入ってます。歌詞が魅力的です。それと異色なのが、「ワイルド・サマー」だと思います。正直、一番はじけていて盛り上がります。

    フリッパーズ・ギターは、なんともいえない甘いヴォーカル、不思議で面白い歌詞、いろいろなことが試されている音楽と三拍子そろって良いです。
    ちなみに最近、ガーネットクロウの中村由利さんの好きなアーティストに入っているのを見つけて、「あー」と思いました。良いってコトですね。

    Thanks to Tabelin.
    壁の穴 吉祥寺店
    壁の穴、って不思議な名前ですね。チェーン店みたいです。
    吉祥寺店は二階にある、こじんまりとしたお店。

    ランチはドリンク、サラダ、パスタで1000円程度(単品価格にサラダ、ドリンク込みという内容です)。
    ランチとして選べるパスタは3つくらいに決まっているようです。
    ここのパスタは、味付け、具材などとてもシンプルで、和風テイストですね。
    海鮮やきのこ類のトッピングです。
    生麺を使っていると思います。

    味は悪くないのですが、難点を少々。
    1.サラダやドリンクの出方がメチャクチャ。少し考えて出して欲しいところ。
    2.量が少ない。大盛りにしないと足りない。
    3.それなのに、1000円はかかる。少し割高な感じ。

    乾麺のアルデンテをたらふく食べたいひとには少し物足りないかもしれませんが、それでもハモニカ横丁にある「スパ吉」などが好きな人は気に入るのでは。
    マレンマ銀座 LA MAREMMA GINZA
    銀座にある本格ピッツェリア。大手町にもあるようです。
    本店はローマにあるという、名のあるお店。窯や食材、シェフなど質は確かです。

    銀座店は、地階にあって、広いスペースに大食堂のように、長テーブルが並んでいます。キツキツで、移動などはすこし不便な感じですが、雰囲気はにぎやかです。

    オーダーはバイキング形式。ピッツァは焼きたてを切り分けて持ってきてくれます。種類もそれなりで、薄いローマ風なので結構食べられます。しかし、やはり客が多く、持ってきて欲しいときに待ってきてくれなかったりすることもあるので、自分のペースで食べようとするとジラされるかも。でも、美味しい焼きたてを持ってきてくれるサービスは良いです。
    そのほかに、サイドメニュー類、ドリンクもバイキングできます。少しドリンクの種類が少ないのは気になったかな。でも基本はあるので問題はないです。また、デザートもあって、最後まで楽しめますね。

    ピッツェリアとしてはやはり、その人気が示すとおり、上位店であることはまちがいないです。料理と価格、サービスなど広く良いものを提示してくれていると思います。
    パトリシア・ハイスミス(Patricia Highsmith)のサスペンス


    パトリシア・ハイスミス(1921-1995)はサスペンスの女王といってよいほどの世界的名声のある女流作家。
    日本では意外に彼女の名は知られていないのですが、「太陽がいっぱい」、また「見知らぬ乗客」などのヒッチコック映画でも有名だし、最近でいえば、マット・デイモン主演映画「リプリー」は彼女の原作で、臨場感十分なスリルのある展開は映画向きなのでしょうか。
    いずれにせよ、ハイスミスのストーリーテリングは超一級です。個人的にも、海外ミステリーという大きな枠でくくっても、自信を持って五指の中に挙げられる作家です。

    ハイスミスの作品は、推理小説の部類、場で語られることもありますが、探偵が出てきて事件を解決するのか、というとそんなことはあまりなく、どちらかというとそちらの方面とは一線を画しており、サイコスリル的なサスペンス、または超常現象的なミステリーなどにカテゴリされるものでしょう。
    勿論、殺人などの事件は起こりますが、最初から犯人は特定されていて、彼の心理状況の変化がどのように物語を発展させていき、最後にはどのような結末を生むのか、という要素が大きく、読者は、探偵役ではなく、事件を起こしてしまった、巻き込まれた側の立場で物語を進めていくことが多いのも特徴です。
    そのため、勧善懲悪のような明確な視点はハイスミスの小説にはほとんど見られません。
    犯人も自分の心の弱さというものから事件を起こしていき、冷徹で計略を練りながら淡々と完全犯罪を狙うような犯人像とはかけ離れています。殺人を犯してしまったということから、どんどんと深みにはまっていき最後には抜けられないという、もがきながら堕ちていく人間の心理がとてもリアルに伝わってくる作品になっていることが多いです。
    それなので、読み進めていくうちに、場合によっては犯人に同情的になってくることもありますし、その意味で「憎むべき犯人」のような感情は抱きづらく、このような点で人間味が良く伝わってくる人物描写をしています。

    さらにハイスミス作品を特徴づけるものといえば、ミステリー、サスペンスには欠かせない、展開、結末の意外性です。
    ツイストを重ねる展開や、ハラハラさせる流れはいわずもがなですが、特に印象に残るのは、驚き、不安、動揺、唐突、疑問など、なんとも形容しがたい独特の感じを醸し出す結末。完全に明確に人間関係や感情、成り行きが明かされるようなラストにはなりません。
    こういう意味で、とても歯切れが悪い。しかし、この歯切れの悪さがハイスミスの魅力でもあり、同時に読者にメッセージ性を残すものになっていると思います。


    ハイスミス作品は、21の長編と6つほどの短編集からなります。
    長編は皆、どれがお奨め、ということもいいづらいような出来なので、あえて強くこれだけは、というような作品はありません。多くの作品に触れて、ハイスミス・ワールドを味わうことをおすすめします。
    個人的に印象に残るのは、「愛しすぎた男」、「殺意の迷宮」、「ヴェネツィアで消えた男」、「ガラスの独房」など。
    これら作品を筆頭にハイスミス作品の登場人物は、愛という激情に結びついた攻撃あるいは殺人という、傷害や殺人とくくられるなかでも一番、感情の振幅の大きい主題で描かれることが多く、「愛しすぎた男」や「殺意の迷宮」などは主人公が悪いとは分かりつつ、つい同情し、同じような視点で考えてしまったりして、物語に引きこまれていきます。それから事実上の処女作「見知らぬ乗客」、また「生者たちのゲーム」などもドキドキハラハラの展開です。

    短編作品は、「動物好きに捧げる殺人読本」などを中心に、本当に奇怪な作品が目立ちます。
    高度に社会化された現代人に対する、自然の反乱というようなテーマで、現代社会への危うさへの冷ややかな警告というものが隠れています。また、ごく最近、時代区分で短編をまとめた大きな短編集が河出書房から出されたようで、こちらも楽しみです。


    ハイスミスの作品は、角川、扶桑、河出、創元などの各社に版元が分かれており、入手は正直いうと結構手間です。
    常時店頭に並んでいることもそうないと思いますし、作品によっては在庫があまりなかったりするかと思います。しかし、ハイスミスの作品は「リプリー・シリーズ」を除いてはすべてノン・シリーズで、どれから読んでも差し支えなく読めるので、図書館、書店、古本、ネットでもなんでもいいですが、出会った作品から読まれると良いと思います。すぐにハイスミスにとりつかれることでしょう。

    テオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau)について


    パリに行って改めて、見方を変えさせられた画家の一人がテオドール・シャセリオー(1819-1856)である。彼については、ロマン主義と新古典主義の潮流がある19世紀画壇において、両者を統合させた画家、という以上の情報はあまり得てこなく、それまで日本で見た絵も、二主義の折衷的な絵であった。しかし、これだけでは捉えきれない部分が多いことを直に見て痛感した。
    ここでは、彼についての情報を整理してみたいと思う。

    テオドール・シャセリオーは1819年にカリブ海の当時フランス領であった、サント・ドミンゴ島で外交官の息子として誕生する。1830年にアングルの弟子、アモーリー・デュヴァルを介して、11歳にしてアングルのアトリエに入る。1834年にアングルがローマのアカデミー・ド・フランスの院長になりイタリアへ行くまで、そこで学んだ。
    1836年にサロン初出品で三等賞メダルを獲得する。以降、サロンに出品を続け、アングルから引き継いだ新古典主義画風の絵で高い評価を得る。ルーブルにはこの30年代にサロンに出品された絵等がおいてあるが、どれも十代の絵描きが描いたとはどうしても考えられない完成度を持っている。十代前半にそれ相当の絵画技術を習得しており、まさに神童と呼ばれるにふさわしい。下の絵はわずか13歳の時の作品。
    1840年から念願のイタリアへ赴き、アングルと再会するが、そこでは既に両者の方向性は異なっていた。シャセリオーは、特に新古典主義の対抗主義とされるロマン主義の代表画家、ドラクロワから多大な影響を受け、次第にアングルから受け継いだ線的描写とドラクロワから得たロマン主義的な色彩とを融合させる方向へと向かう。
    1846年にはアルジェリアへ赴き、デッサンを重ね、オリエンタリスム傾向を強める。肖像画、神話画題などの宗教画、オリエンタリスム絵画など幅広く作品を手がけ、また壁画制作にみられる大規模な仕事もこなした。裸婦の表現などは特に評価が高い。また、モローの最も尊敬する画家として、影響を与えたことも有名。
    1856年に惜しまれながらも、37歳という若さでパリで病没した。

    以上が、彼のキャリアについてのおおまかな情報である。
    シャセリオーの魅力は、まずは、神童と呼ばれるような、早熟された新古典主義絵画技法。十代前半で描かれた肖像画が、他の大画家の作品と並べて飾られていて、見劣りしないというのはただ驚嘆するばかりである。そして、肖像画を中心とする30年代、40年代最初期の絵画は、正統なアングル主義を受け継いでおり、アングル門下でも傑出した魅力を持っている。1834年にアングルとともにイタリアへ行っていたら、ダヴィッド-アングル-シャセリオーのような新古典主義を強く結ぶ連関ができていただろう、と想像させるほどである。
    次に、一般にいわれる、新古典主義とロマン主義の融合。これは折衷主義といわれる一部いい所取りのような評価とは違う。両者を統合することで、新たな絵画表現を生み、シャセリオー独自の主義を確立する方向性を評価している。40年代からドラクロワの影響を自身の絵画に取り入れていくわけだが、そこにはやはり試行錯誤というか、揺れ動きというものが見て取れると思う。未だに見ていない作品も多くあるので強くはいえないが、アラブの騎兵を描いたようなオリエンタリスム絵画では、ドラクロワ的要素が多く取りいれられ、まったくロマン主義絵画といってよいものだが、逆に裸体表現では、50年代に入っても新古典主義的風合いを意外に保持している。このように画題や時期などにより、画風は一定せず、新古典主義、ロマン主義の両方を行き来しながら融合を進めていたというような印象を受ける。おそらく、このような過程で、アングル主義を根底に持ちながら、ロマン主義をどのように昇華できるか、というものがシャセリオーにはあったと推測するが、それをなしとげるには、あまりにも早すぎる死だった。




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