芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
  • calendrier
  • FREEDOM PIANO STORIES 4  久石譲


    久石譲のピアノ作品集の第四集。
    映画、CMにテーマ曲をつくっているだけあって、どれもがおなじみの曲。あの音楽、久石作品だったんだ、と彼の仕事の浸透度が実感できるピアノアルバムになっています。

    まず、はじめは、このアルバムを飾る、「人生のメリーゴーランド」。「ハウルの動く城」のテーマ曲として有名な作品ですが、ピアノ、弦楽器をメインとしたヴァージョンにリアレンジされています。ただ、ピアノを前に持ってきて曲調を変えるだけではなく、完結部の構成を変えていて、オーケストラルヴァージョンにないシックな感じを出していて良いです。
    「Spring」は真剣ゼミのテーマですね。「Summer」とならんで季節をテーマにしてます。主題の構成も似ていて、一緒に聞いてみたい曲です。また、お茶の方のイエモンのテーマ、「Oriental Wind」は、この作品集では一番荘厳なつくりです。このような有名CM曲は、主題しか流れないので、通して聞いてみるとさらに良さが伝わってきます。

    加えて、有名曲以外にも、書き下ろし新曲となる作品も4つ収録されており、CM、映画のサントラだけに終わらない要素もあり、聞き応えがあります。
    全体的に、ピアノをメインとして使いながらも、その本質は、やはり弦楽とのピアノ重奏にあり、深みのある作品になっているといえます。しかし、このような中で、ピアノソロの「Lost Sheep on the bed」も光っています。

    スポンサーサイト
    同質性に強調される異質性
    改めて感じるのは、二者間で生じているある差異、もしくは断絶は、その二者が、ある部面において共有する同質性があるからこそ強調される(より意識化される)のではないか、という問いである。
    これは、ミクロレヴェルでの経験にも適用されるだろうが、現在各地で生じている国家、民族間の摩擦、軋轢等のマクロレヴェルの事象に当てはめてみたときにより考えさせるところがあると思う。

    アジアに絞っていえば、日本と近隣諸国との意識レヴェルでの断絶は戦後60年を迎えても顕著なものがある。勿論、それだけの歴史的な理由があることは間違いないが、ここでは敢えて、上で掲げた問いに沿ってこの問題群を考えたい。
    東アジア諸国の民族を人種として捉えてみれば、モンゴロイドということで統一されており、肌、髪、目の色などの身体的特徴と、文字、宗教などの文化的特徴を共有しているところが大きい。つまり、日本人と、他の東アジア圏人は、日本人と西欧人に比べて、同質性の領域を多く持っていることになる。
    しかし、日本が一番に外交問題を持っているのは、こうした東アジア諸国であり、その断絶は一朝一夕では解決不可能の根深いものがある。

    この状態と比べてもらいたいのが、日本とアメリカ、ヨーロッパとの関係である。
    数多くの兵士を殺傷され、本土には原子爆弾までも落とされ非戦闘員まで犠牲を拡大したアメリカに対しては、ほとんど対東アジア諸国関係のようなものは問題になってこない。終戦直後のマッカーサー人気などは、まさにこのことを異常に早い段階から示唆する。しかも、第二次大戦の被害ということに加え、アメリカは帝国陸海軍誕生から仮想敵国の一つであった歴史的事実にもかかわらずである。なにはともあれ、アメリカは憎むべき第一の敵国から、第一の友好国になった。
    その他のヨーロッパ諸国も、東アジア諸国との例は見出せない。古くに遡れば、日露戦争を戦った帝政ロシアとも、比較的早く友好関係を取り戻していたことも付言に値する。

    では何故このような状況が生まれてきたのか。
    第一の要因は、政治外交上の理由であり、それは国家間の戦略が大いに関係している。ここで考察を進めようとしている認識レヴェルの次元とは比べものにならないほど大きな要因であろう。
    だが、同質的にカテゴライズされるものの中の、異質性を示す事実が、意識レヴェルでの断絶を助長するという作用もあるのではないか、ということが本小論の本旨である。

    同じような姿態をしているものが、自分のものとは全く違う、意味不明な言語を話し、西洋的近代化された様式とも違った、あやしい生活様式を持っている。この現前の事実に、(彼らとのはっきりとした差異化を求めるがゆえに)人はより強い異質性を自己の認識に、持ち込むのではないか。
    例えばアジア人と西洋人をモデルとして考える場合、こうした認識とは離れた認識をするのだと考えられる。両者は、見かけも文化も全く異なっていることをもはや自明なこととして、対象を認識できる。この異質性が自明なもの、予測可能なものとして諒解されている状態においては、新たに経験される異質性は、前段階の他者認識に対して適合的に認識される。さらに往々にして、その異質性は、近代的価値基準から見ると、一般化されていることが多い。

    この同質性が多少なりともある領域に生まれる、決定的な異質性が認識に及ぼす影響は、包括的に捉えると、美学的な問題をも有している。同質的なもので共有される中に、それとは異なったパターンのものが侵入してきた場合、その異質的なものが、それ自体正常なものであっても、人はそれに強いグロテスクさを感じるだろう。
    このような同質的なもの、統一的なもの同士を前提にものをカテゴライズし、対象をより認識しやすいように思考する方向性は、おそらく、進化論的認識心理学などの分野で論じられるような、そのように世界を自分の把握できるように再構成することができる思考を持った者がより生存しやすかった、という進化論的アプローチと関連してくるだろうし、ここで考えるような一種の思考パターンは、人類の根本的な思考要素を占めているのだと考えられる。

    以上考察してきた、アンビヴァレンスな意識に対する問いは、残念ながら、満足に実証的結論を導き出すには全く至っていない。問いは問いのまま終わっているし、もしかしたら、このようにマクロ的な歴史問題に、筆者の問いを当てはめて考えること自体、有効性に欠けているかもしれないし、この問いのモデルだけにおわらない諸要素は多くある。
    だが、一例として、アジアの国家間的、民族的問題が、ただ単に政治学的、地政学的アプローチでは取り扱えない領域に及んでいるからこそ、それは政治レヴェルでは簡単に解決しないのだと思うし、それだからこそ、認識レヴェルでの一定の純度を持った実証的なアプローチが意味を持ってくる。
    いずれにせよ、現前の同質的領域と異質的領域のインタラクションが、人の認識にどのような影響を持つのか、ということは興味深い問題だし、それを表象する経験は誰もが持っているのだと思う。
    La Tana  ラ・ターナ 
     吉祥寺のナポリピザの専門店。場所は、少し中心から外れて、三鷹方向へ行った、井の頭通り沿いにある。
     すっきりとした内装で、ピザを焼く釜があり、焼いているところが見られる。やはり、ピザは、焼きたてがでてきて、美味しい。
     またパスタもオーダーできる。ここでは、初めて、トマトを具材とした冷やしパスタを食べられたが、さっぱりしていて美味しかった。
     1000円程度でサラダ、ドリンクなどがつくランチがあるので、ランチに行くのをお勧めします。
    写真と写真のような絵
     写真のように上手い、写真と区別がつかない、とは良くリアルに仕上げられた絵に向けられる言葉だ。これが褒めことばのときは、まあ、画家の技術を評価しているのかと納得ができる。しかし、どうも諒解がいかないのが、写真があるんだから、写真で十分では?、とか、写真みたいな絵はつまらない、写真じゃなくて絵なのだから、もっと絵らしく描いたら?、とかいうようなことば(もしくは意識)である。
     別に周りに、このような意見を直接いう人が現にいなくても、少なからず、似たようなことを耳にした記憶がある方も多いだろう。ここでは、このようなある層で持たれるステレオタイプにでくわしたときに、きちんと反論できるように、違う立場の意見を整理しておこう。それによって、絵と写真との差異関係も考えられると思う。

     まず、根本的に、表現方法・形態が違うものを、同列に扱うことは無理があるということである。根本的なことなので、これをいえばひとことで済むが、ともすれば意見の断絶を確認するだけなので、紙面はさきたくない。風景を撮った写真を、引き伸ばして金縁の額にいれて、写真のように上手い絵の横に飾れるか、否か、を考えてもいいし、両者の表面なり断面なりを綿密に見比べてみてもいいだろう。両者には大きく分けて、構成要素的、役割機能的な差異が確実に認められる。
     第二に、これがここで一番いいたいことなのだが、写真のような絵は、往々にして写真のように、現実、真実をそのままに写し取ってはいないということだ。印象派以前の、写真のように現実的な絵を描く画家は、野外で制作することはあまりしなかった。部分的なデッサンを、アトリエで組み合わせて、場面を自分で構成していたのである。ある場面でいわれることだが、絵画における、写実主義は写真主義ではないということにこれは集約される(お世話になったことのある近代美術専攻の教授によると、写実主義と訳される、レアリスムの語源は「レール」=「現実の」ということで、対象をそのまま写すという意味はそもそもないらしい)。
     これは、絵は、自ら世界を構成しえるという、非常に可能性を秘めた利点を持っていることである。例えば、幾つかの写真は、絵としては、つまり絵画的構図法を適用すれば、絵と比べられるものとして通用するものではないといえよう。逆はあっても、写真に写されたものを動かして、あるいは消して、構図的にバランスを持ったものにしようとすることはできない(勿論、「加工された画像」にはなろうが、それは本来的な写真ではなかろう)。写真において構図を絵的に、完全に作者の意図通りにするのは、苦労してその場にたどりつくか、自分でものの配置を構成するか、になる。だが、もしこのようなことをしても、絵に比べれば、断然、裁量の幅はなくなるのは明白である。それは、絵が主として持つ、第一次的な表現性に関わる問題とでもいえるかと思う。このようなことは、あまり詳しく言語化してみても仕方ない。絵は、対象を、自分なりに解釈して、再構成して、または対象を自らの意識の中に作り出して、それを数え切れないほどの方法を用いて表現できるのである。つまり、絵と写真を同列に扱う立場から考えれば、「写真らしく」も「絵らしく」も表現可能であり、それらは互いに対象が解釈・再構成された唯一の結果である。
     また、より包括的に捉えるならば、「芸術はもっとも美しい嘘である」というドビュッシーのことばを考えてみると良いだろう。この言葉には、芸術作品の本質ともいうべきものが含まれている。これを踏まえれば、絵、写真と現実世界との関係、位置づけが見えてくるだろうし、芸術と捉えられた次元の写真は、必ずしも真実の姿を写したものではない、またそうである必要はないことは諒解される。

     最後に付言しておきたいことは、この文章を読んだ方の中に、筆者が、絵と写真を可能な限り差別化して、絵に優位性を過分に与えているように感じる人がいるかもしれないが、それは読み違いであるということである。冒頭で示したが、筆者は、「写実的」といわれる非常に高度な技術を以ってして描かれる絵は、写真がある現代では、芸術的価値があまりないのではないか、というような誰かが率直に思うような意見の中にある問題を考え、「写真のような絵」の意味を再考しよう、ということ述べたいだけである。最初に定義を与えておくべきであったが、この意味で、「写真のような」にある「写真」は、現実のものがレンズを通して見たままに記録保存されたもの、というような消極的な意味を与えられた表現形態としてしか考えられていない段階での「写真」である。筆者は、勿論、このような意味ではない写真の意味を知っているし、このことを念頭に置けば、この小論で取り扱っているステレオタイプは、絵、写真両方の芸術的意味を矮小化して捉えていることがはっきりと見えてくるのである。
     ここまで述べれば十分だろう。互いに交流することはあるかもしれないが、確かに絵と写真は別のレヴェルに位置していることが納得されると思う。「写真のような絵」は、「写真」のように現実世界そのままであるように見せることだけに意味があるのではないし、そこだけに意味が生じるのではないのである。
    オルセー美術館 Musee d’Orsay


     ルーヴルに続く、フランス屈指の大美術館。昔の駅舎を改造して使っているだけに、展示環境もとてもいいですね。新古典主義から現代絵画までの19,20世紀絵画を取り扱っています。

     新古典主義の展示室は本当に、僕の尊敬する画家たちばかりなので感動ものでした。アングル、ジェローム、カバネル、エネルなどは勿論、前々から作品を見て素晴らしいと感じていましたが、ここではアングルの弟子、アモーリ・デュヴァルも一目見て魅かれました。新古典主義とくくられる、この時代のアカデミズムは、印象主義などの革新運動と比較され、ともすれば、お堅い、古臭いなどというイメージと結びつきますが、技術は並みのものではなく、それまでの古典絵画にはない洗練されたものを持っていると思います。解説プレートにあった、美術作品とは「澄んだ水のようなもので、香りがなければならないほど健全」なものであるという、新古典主義の基本理念ともなったヴィンケルマンの言葉が印象的でした。

     それからは、ロマン主義が続きます。シャセリオー、ドラクロワなどの有名な作品が並びます。そして中ほどまで進むと現れるのが、トマ・クチュールの「退廃期のローマ人」。この巨大作品は見るものを圧倒させます。建物、床などの周囲の処理は、クチュールの作品にしばしば特徴的な背景処理の仕方にある、平面的な塗り方で済ませていて、線などは木炭でそのまま引いているのですが、人物はそれと対照的に、かなり力強く描かれていて、ロマン主義的な印象を受けました。

     一階の入って右側、リール・ギャルリーの最後のスペースには、異色の、ドガの1870年代までの作品を置いています。踊り子で特徴的な時代のドガの画風とは結構異なっており、ドガとは思えない感じです。モローなどと交流があって、まだ、印象主義画家が取り上げるような、身近な画題を選んでいない頃の作品ということなんでしょう。

     それとオルセーで一番存在感を出しているのが、クールベ。「オルナンの埋葬」と「画家のアトリエ」は、有名で、しかもすごい迫力の絵です。これを見るだけでも行く価値が発生すると断言できますね。それと、このクールベのコーナーには、問題作「世界の起源」もあります。外人さんも、見るとにっこりしたり、歓声を上げたりしてました。

     それから、クールベの一画があるセーヌ・ギャルリー側には、バルビゾン派や印象主義の作品が並んでいます。こちら側で特に興味を引いたのが、カロリュス・デュランとジェームス・ティソの部屋。ともにリアルな描き方をしますが、デュランの方はすこし筆を大胆に使う感じで、ティソの方が写実的でした。日本ではあまり見る機会がない画家だと思うので見れて良かったです。またこちらの側の部屋には、「オランピア」はじめ、マネの珠玉の大作が置いてあります。

     地上階から一番上レヴェル5に行くと、印象派の階になります。
     入ってすぐのファンタン=ラトゥールの部屋は、迫力ある集団肖像画が沢山あります。小さい絵しか見たことのなかったので、正直見直しました。
     それからは、お馴染みの印象派巨匠の作品がずらりと続き、まさにオルセーに来たっていう感じです。
     特にルノアールは、僕の一番のお気に入りの「都会のダンス」「田舎のダンス」の連作、そして、有名作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」があり、ルノアールの絵の優美さが良く伝わってきます。

     そして、順路を追ってレヴェル2に降りると、アカデミズムや自然主義の作品の大作が並ぶ、大きな展示室がまず、目をひきます。あとは、アール・ヌーヴォーの展示が良いですね。ガラス工芸から、家具・調度品までいろいろあります。

     全体的な印象は、ルーヴルとは違って、吹き抜けになっている、一つの大きな空間に、絵画を展示する部屋と、彫刻作品を配置してある通路がフロアを構成していて、とても芸術空間としてのまとまりや流れが感じられる、良い美術館であるなと思いました。
     要望としては、収蔵庫にあるだろう、多くの展示されていない絵画も、もう少し見てみたいですね。良く「オルセー美術館蔵」って書いてる絵画を見ますが、実際に展示していない作品も多かったので。





    ギュスターヴ・モロー展 Bunkamura ザ・ミュージアム


    フランスの象徴主義画家、ギュスターヴ・モローの展覧会。作品は、パリのモロー美術館から来ています。モローとその美術館については、このブログの「ギュスターヴ・モロー美術館」の記事参照(カテゴリの「パリのミュゼ」から)。それなので今回はさらっと簡単にレヴューします。

    展示内容としては、それぞれモローが取り上げた主題を、複数のヴァージョン、習作デッサンなどを並べて説明するという、極めて分かりやすいもの。
    レダと白鳥、エウロペ、レルネのヒュドラ、デイアネイラ、一角獣、サロメなどの神話主題が盛りだくさんです。

    レダは、水彩を中心に結構まとまって見ることができました。やはり、制作時間が圧倒的に短縮できる水彩ではいろいろ試せている感じです。

    そして、一角獣のセクションは、やはり作品こそ少ないですが綺麗でした。
    メインとなる、上図の「一角獣」は、色彩を散りばめて、そこに黒で緻密に文様を書き込むという、モローに特徴的な方法で以って、すごく装飾的に独特の雰囲気を醸し出している絵です。

    それと、サロメのセクションがまとまっていました。
    習作デッサンも、分かりやすく展示してあって、一連の制作過程が良く分かります。
    モロー美術館では、並べて見るということは不可能なので、このような機会に、油彩と並列して見れるのは貴重です。

    全体を見渡していうと、やはり、日本へ持ってきて展示するということで、程よく筆を入れられて出来上がった作品がほとんどだったですね。ということで、モロー美術館にある、明らかに制作途中の作品はなかったです。主題を絞って、未完に終わった作品も並べて展示した方が僕は良いと思いますが、ま、そのような作品は、往々にして巨大キャンヴァスで描かれているし、その他の要因からも難しいのですかね。

    モローは、モロー美術館に行って、直接多くの作品に触れて、見方が大きく変わった画家なので、これからも注目していきたいです。
    休館の多いパリのミュゼ


     僕が何としても、現地で絵を見てくるんだということで、単身パリに赴き、貧しいながらも、充実した一週間を過ごしたのは、今年2005年9月中旬でした。
     その貴重なときに見たいけれど、閉館しているということで、残念な思いをすることが幾度かありました。
    運悪く、この時期は、結構多くの美術館が改修のため閉館していたのでした。

     まずは、エベール美術館(上図)。18世紀、アングルに続きアカデミズムを支えた画家、エルネスト・エベール(Ernest Hébert)の作品を集めた小美術館です。僕のパリ行きは、この画家の絵を見ることが一番にあったのですが、見られず仕舞いでした。幾つかのサイトには書かれておらず、公式にも詳しくは書かれていなかったので、現地で知って落胆しましたね。
    2004年1月から、改修のため閉館しています。開館は未定とのこと。
    この美術館が開館したらもう一度パリに行くことを誓い、その場を去ったのでした…。

     次に、ジャン・ジャック・エネル美術館(下図)。エネル(エンネルとも表記)も、エベールと同世代のアカデミズムの画家。日本では村内美術館に幾つかあります。
    ここは、2005年8月から閉館しています。開館時期は未定。
    ネットには秋から閉館と書いてありました、もう閉館始めているなら閉館中と書くべきでしょう。これはエベール美術館の方も同様です。
    エベール美術館に続いてのことだったので、そのときより落胆せず済みました。こちらも開館したら、是非行きたいです。

     そして、チュイルリー公園内にある、オランジュリー美術館。印象派以後の画家の作品が置いてあります。
    2001年1月から閉館中で、ガイドなどに載っている予定では、とっくに開館している頃なのですが、未だに閉館。最新のものでは2006年まで閉館とのこと。(2006年5月17日に再オープンしました。)
    行って進捗状況を見てきましたが、確かにまだかかりそうな印象を受けました。

     プティ・パレ。19世紀絵画などを展示しています。
    ここも閉館中で、オランジュリー美術館よろしく、開館時期が延長されてきました。2005年末にやっと再オープン予定(2005年年12月10日再オープンしたようです)だといいます。ま、結構工事も進んでいたし、開館してくれるでしょう。
     加えて、向かいの企画展示用のグラン・パレも工事中だったのですが、ネットを見る限り、こちらは、9月17日に開館したとのこと。僕が同月14日に見たときは足場とかがまだついていましたがね。

     ここまでは、入りたかったけれど、入れなかった美術館。その他にも、2005年10月現在閉館しているのは、パリ市立近代美術館ですね。近現代絵画好きの方は開館を待っておれれると思います。

     このように、パリ市内の美術館でも、結構な数の美術館、施設が改修をしている時期にパリ行きがあたってしまい、運が悪いといえば、そうでした。まあ、日本では、このように同じ時期に、主要な美術館が閉館していることはなく、現地に行ってとまどいもありましたが、仕方ないといえば仕方ないのですから納得するべきです。

     少し気になるのは、再オープンの予定が結構ルーズなことなんですよね。建物自体が歴史のある重要なものであり、建築自体が大きいので全く文句をいう気にはなりませんが、気になるといえばなりますよね?
     ここで、僕が一番関心があるのが、最初に挙げた美術館の開館時期についてです。この二つの美術館は、建築規模も小さいので、再オープン時期が年単位でずれてきた美術館と違うでしょうが、割かし最近改修閉館になり、再開館も未定なので、どれだけ改修に時間がかかり、いつ頃開館するのかな、というのはやはり関心事です。行って見られない思いをした人は僕だけではないと思いますし、僕も時間のある学生のうちに二つ開館するなら、パリ行きを考えないでもないし。

     最後にまとめますが、要するに、良く確認してから行きましょう、という基本的なことですよね。まったく僕はこういうことについては、ミスを連発していて、いつか大きいミスをしてしまう気がしていますので、より気をつけたいです。勿論、閉館していたから、行った意味が半減したということはなく、それどころか収穫の多い旅でした。

     最後に、パリの美術館情報を得るためのサイトを紹介しておきます。

    MMF(日本語) http://www.museesdefrance.org/top.html
    RMN(仏・英語) http://www.rmn.fr/
    仏政府観光局(日本語) http://www.franceinformation.or.jp/paris/index.html




    ルーヴル美術館 Musee du Louvre


    いわずもがなの世界最大級の総合美術館。
    まったくもって、その展示品の幅広さ、貴重さは見るものを圧倒させます。
    このようなところで、とても紹介できるようなものではありません。ここでは、幾つかの見所と、絵画部門について少し書かせてもらいます。

    絵画は、下から順路を考えて並べると、二階(仏では一階分引く、これ以降省略)に、イタリア絵画、19世紀フランス絵画の大作、スペイン絵画、三階に、フランドル絵画、フランス絵画と簡単に分けることができます。また一画ずれて、二階にイギリス絵画があります。
    まず、いうまでもないことなのですが、コレクションの膨大さには驚嘆です。特にイタリア絵画は最初の日に見たのですが、100メートルくらいにわたって両側に絵がかかっているわけですから。イタリア絵画をメインとする二階で一日かかりました。
    この二階では、フランス絵画の大作をおいてあるグラン・ギャルリーが特に良いですね。新古典主義と、ロマン主義に分けて展示してあります。
    新古典主義セクションでは、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」「ホラテウス兄弟の誓い」などの代表作が、壮大さとある種の緊張感をもってそびえている感じで、アングルによる幾つかの秀逸な肖像画や「グランド・オダリスク」、初期シャセリオーの新古典主義画風による作品などがそれに続きます。
    ロマン主義の方では、ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」「キオス島の虐殺」、ジェリコーの「メデュース号の筏」などの力強い作品があります。
    どちらともに、世界史の資料集などで一度は目にする絵で、やはり、巨大なキャンヴァスに描かれる生の絵は違いますね。
    それとここでは、ドラクロワの影響を受けた、ロマン主義的画風の方で有名なシャセリオーの、新古典主義画風の作品を見られて、彼がアングルの弟子と再確認されるとともに、その天才性に惹かれました。「シュザンヌの水浴」は、ひときわ異彩を放っていました。彼については、また違う機会に論じたいと思います。それと、シャセリオーの絵は、何と、グラン・ギャルリーとフランス絵画部門以外にもルーヴルに展示されています。それは、18,19世紀のフランス彫刻のセクション。多分、そんじゃそこらにはこの情報はかかれていないのでは。三日にわたりルーヴルを徘徊した結果に見つけたものです。

    二日目は、三階へ行き、フランドル絵画のセクションから見ました。ここは、なんといっても、ルーベンスでしょうね。展示室の四方に、巨大キャンヴァスを埋め込んで空間そのものを展示している、「マリー・ドゥ・メディシスの生涯」。圧巻です。
    そして、14世紀から始まるフランス絵画部門を見て、この後19世紀フランス絵画部門に行ったのですが、なんと閉鎖中。一日目も、最後に様子伺いに行った時に閉鎖していて、その時は時間が遅いから閉めたんだと思っていましたが、その期間閉鎖中ということだったらしい。行きたい美術館は改修閉館していて、ルーヴルの19世紀フランス絵画まで見れないで帰国、と思うと絶望という感じでしたが、係員に聞くと、滞在最終日であった、次の日には開くということ。本当に神に感謝してしかるべきなレヴェルで助かりました。

    そういう経緯で、前日からドキドキハラハラで落ち着かなかった、予想外のルーヴル三日目は、19世紀フランス絵画部門。
    意外に思ったのが、アングル、ドラクロワ、ジェリコーなどの有名画家は一室、一スペースを割いて展示しているのですが、その他の画家の作品が少ないな、ということです。19世紀に入ってくると、もうオルセーの領域ということなんでしょうか。もっと幅広く作品を見たい感じを強く受けました。それでも、やはりアングル部屋などはレヴェルは相当なものです。

    フランス絵画部門を概観すると、やはり個人が寄贈したコレクションはインパクト、充実度が違うな、という印象を強く受けました。多分に、これは、趣味良く、質の良い、まとまった絵画を一室に展示できている、という要因からくるものですが、こう考えると、展示室の構成が印象を変える力というものをはっきりと感じさせられます。
    それと、コローはオルセーなどよりも、コレクションがそろっていました。コローのセクションは、風景だけではなく、人物画など広く、コローの画風や画題を見ることのできる一番の環境だと思いました。

    あと少し、絵画以外の見所を紹介します。
    まず、ミロのヴィーナスやニケは除くとして、見てみるとすごいのが、「ナポレオン三世の居間」。いろいろと王侯貴族にブルジョワの部屋を見てきましたが、これが多分一番ヤバいでしょう。やるもやったり、っていう感じですね。
    それと、フランス彫刻を集めた、マルリー、ピュジェの中庭。中庭といっても、緑が多く茂っているわけではなく、高い天井と、広い空間の中に、彫刻が点在していて、まあ、そこに木などが配置されている感じで、とても気持ちがいいです(下図)。ここでソファを持ってきて昼寝したい気分です。

    ルーヴルの注意点としては、展示室の閉鎖という問題です。これは二種類あって、まず本当の改修や整理などで閉鎖している分には仕方なく、規模も小さいので納得できますが、気をつけたいのが、上で挙げた、入場制限的な閉鎖です。学芸員や監視員の人手不足で、展示室を空けられないのか、どうか分かりませんが、僕の行った時は、一度に絵画の全てを公開していることはなく、どれかのセクションを一度に閉鎖してました。
    「ルーヴルは一日では見切れない」は常套文句ですが、これには意味が複数あって、美術館の広さ、展示品の多さで周りきれないという一般的意味と、展示室を閉鎖していて、見たくても入れないので見れない、という意味が大きいです。
    閉鎖している展示室は予め分かるというようなので、一度に見れないと致命的な状況に至ってしまう方は確認を奨めます。こういうことは、観光ガイドには、詳述していることが稀であるので、とまどいましたね。

    カフェ、レストランは充実しているし、書籍コーナーは画集ではおそらく一番揃いが良く、地下にはショッピング街があり、どこをとっても総合美術館でした。




    コニャック・ジェイ美術館 Musée Cognacq-Jay


     パリ、マレ地区にある美術館。
     デパート創始者、アーネスト・コニャックとルイーズ・ジェイ夫妻のコレクションからなります。ガイドには詳しく書かれていないのですが、入場無料でした。

     フランスの、ルイ18世治世下あたりのロココ美術の作品、画家でいうと、ブーシェ、フラゴナール、グルーズあたりが見られます。特に、グルーズの作品は、シリーズでそろっており、一度に見るいい機会です。写実的な肖像画、寓意画ではなく、耽美的なグルーズ調のあの女性像がメインです。
     それと、この時代の、パステルによる肖像画もいくつかおいてあって、昔のパステル技術に感心しました。加えて、絵画やアンティークで再現されている部屋も他の諸美術館同様、見ものであると思います。

     全体の印象としては、結構すっきりとした感じを受けました。展示内容もまとまっていて、趣旨が明確ですし、ミュージアムショップも、関連の本とハガキを少し一画においてあるだけだし。それに、あまり観光客が押し寄せることはないので、ゆっくり見れるし。
    ギュスターヴ・モロー美術館 Musee Gustave Moreau


     19世紀の象徴主義を代表する画家、ギュスターヴ・モローの自宅、アトリエを使った美術館。
     モローは、作品を遺す親族がおらず、死後に作品が散逸してしまうのをおそれ、自らのアトリエを美術館にするという構想をもちます。そのため、彼は、アトリエを改築したり、作品の注釈を残したり、展示の指示を決めるなど、その努力を惜しみませんでした。こういう、モローの自分の作品、世界観に対する思い入れ、愛情というものは、純粋に素晴らしいです。
     このような経緯があるため、1903年に美術館が開館してから、100年を過ぎた、いままで、展示方針は変わっていないそうです。

     ―、二階は生活のスペースですが、ここには、大画家の作品の模写や、親交のあった画家の作品が、壁にかかっています。これを見ると、モローの他の画家に対するオマージュというものがはっきりと見て取れます。

     三、四階はアトリエで、大きな空間をなしています。壁には大きな作品が、ところ狭しと並んであります。これらの結構多くは、未完や下絵、素描のもので、きちんと完成された作品は意外に少ないです。勿論、完成された作品類は、発注を受けたり、売却したものですから、外にでていて、そうではない作品群がアトリエに残されたことは理解しなければなりません。
     作品を見る態度としては、仕上がっていないじゃないか、完成できなかったのか、ということではなく、モローの構想したものはどのようなものだったのか、モローはどのように制作を進めていたのか、というようなことを重視して見るべきものと思います。
     そのために、4000枚を超すデッサンが閲覧可能になっているのであって、これによって、完成された作品へと発展する考えや準備が伺える大きな一助になっているのだと思います。
     このように、モローの途上作品、デッサン、水彩を通じて、彼の世界を受容できれば、完成作の少ない、B級作品が多い美術館、モロー研究者のための資料館、というような考えではなく、モローの美的信念や、世界を一番近くに感じられる、これこそ本当の美術館だと思えるはずです。
     この美術館は、彼の残した多様且つ、膨大な作品(自分のものであれ、他の画家のものであれ)、そして彼の生活した環境を通じて、見学者はモローの世界と自分とを媒介させることのできる、独特な美的空間になっていると強く感じました。

     注意されたいのが、美術館の中休み。ここでは、カウンターが閉じるだけというようなものではなく、見学者を外に出して閉めてしまいます。そのため、ゆっくり見たい人は午後でなければ見られないでしょう。僕は午前一番に行きましたが、完全に最後まで見れませんでした。というのも、デッサン4000枚は、収蔵庫の、裏表のあるパネルを一枚一枚めくっていかなければ見られませんし、水彩、小作品は一面は見れますが、その他の面は鍵がかかっており、係員にいわなければ見られません(下図参考程度に)。それに日本語の解説プレートもありますし、他の見学者のことも考えなければなりませんし。
     まあ、それよりもここまでして、展示して欲しい、というモローの意思に敬意を感じます。

     僕の行った時期は、ちょうど日本で、「モロー美術館展」が開催しており、運が悪い時期に重なったのかな、と思っていましたが、-確かに、日本に行っていて空いたスペースもありましたが-、大分差し替え展示していて助かりました。いつもは展示してないものをみられたというプラスもあったわけです。
     といっても、まだまだ収蔵庫に眠ったままの作品も多く、デッサンなどはそれだけで、7800枚にも上るそうです。いや、本当にすごいと驚嘆するしかありません。

     このようなところは他にはなく、人を吸い込むような、モローの神秘的、幻想的な魅惑を、芯から感じさせてきます。パリでも、充実度の最も高い美術館の一つです。

     すごいオフィシャルサイトがありますね。
    http://www.musee-moreau.fr/index_u1l2.htm