芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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    スパ吉 
     吉祥寺のハモニカ横丁にあるゆであげ生パスタ専門店。生パスタは販売もしているので自宅でも楽しめる。
     店内は、ハモニカ横丁にあるだけあってせまい。雰囲気的には、カウンターがあって、どことなくラーメン店系な雰囲気といって良いのかな。
     味つけはシンプルでまあまあなのだが、単品で1000円弱程度かかるのでお得感があまりない感じなのがネック。それと落ち着いて食べたいという時にも不向き。メニュウも和な感じ。
     ハモニカ横丁の風情が楽しめるパスタ屋であると思う。
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    権力と労働
    権力と労働というテーマを考える。
    まず、言っておかなければならないのは、この二つは不可分の関係にあるということである。それは、マルクス主義のような、資本家対プロレタリアートの階級闘争というような狭い意味ではない。社会にある労働の介するところに権力は常時付帯してくるのである。それは過去においても、また官僚制が発展した現代にあっても同様である。労働をするということは、すなわち、権力構造に組み込まれるということを意味している。そこでは、個人、組織は権力を行使され、また行使する立場に置かれるのである。
    このことは、上司-部下の関係や、客-会社の関係、会社-会社の関係などを見れば理解されるだろう。勿論、少人数の同志だけの上下関係がないような組織とも無縁ではない。彼らも、大きな市場の円環の中での権力を無視して活動はできない。もしそれを可能な限り相対的に無視できるものを探すならば、自給自足者か他との接触が薄い個人労働者のような極めて社会性が介在しない労働になってくるだろう。
     ここで、功利主義の立場から、一つの疑問が提起されるかもしれない。権力を行使されるということは、自分が仕事の報酬の代価としてのものであり、それは十分に納得されたことであると。よってそれは権力が否応なしに働いていることとは違うのだと。
     しかし、このような報酬、自己の利得が得られるから仕事をこなすのであって、そこには権力はない、というような姿勢は、言わば、個人のスタンス、価値観以上のものにはなりえない。働いている、働かなくてはいけない、というような姿勢に、自己保存、生存目的ではないところの、社会的な要請、道徳規範が外部的に働いているし、望もうが、望まないかを別として、彼は現に、上司の言いつけ通りに動いているし、それは拒否できない事実である。そして、一旦拒否すれば、その組織のルールに従って、彼は一定の制裁を受けるだろう。そのような、構造の一部として位置づけられていることこそが、まさしく権力の介在を所与に受けているということである。
     権力は、他人から直に行使される権力が分かりやすいだろうが、実際、その他にもさまざまな形で働いている。その最たるものは不可視の権力である。不文律、道徳規範、規則、法、習慣、与えられた身分などである。いちいち説明はしないが、このようなものがどれだけ個人を規制し、ある意に沿った形で個人の行動を決定付けるのかは周知のところである。ただ単に仕事をこなしているのでは駄目なのである。あるときは因習や派閥に従って、そしてまたあるときは、ふさわしい体面を保って行動しなくてはならない。
     このように考えてみると、先ほど、首か、仕事を続けるかという選択のうちで、仕事と報酬をとっているのであって、そこには権力は働いていないのだというような見方を吟味したが、それによって与えられた報酬、肩書きすらもある種の権力が介在する場となっていることも明らかである。報酬、代価は権力を正当化しうるだろうし、それ自体が権力性の指標になりえる。肩書きや地位も同様である。

     最後に注意されなければならない点は、権力に対して、所与の状態で負のイメージ、社会悪といったネガティヴなものとして捉えないことである。権力が働いているということは、別に珍しいことでも何でもないし、それがあるということ自体が正常な状態である。権力が働くからこそ、ある人材は、ある意に沿って働くことを期待、約束される。そして、権力性を意識的だろうが、そうでなかろうが受け入れることで、報酬が約束されるのであり、その個人は組織適合的に、そして社会適合的に活動するのである。さらに権力は、フーコーのいう生の権力(生かす権力)まで及ぶ。それは会社組織とて例外にはならない。
     問題なのは、この権力が、その機能が正常に働く状態を逸脱し、個人を過度に拘束し、個人の独立性をも完全に奪ってしまう病理状態にある。その行きつく先は、不正や犯罪、そして個人の過労死、自殺などである。この例を見れば、権力がいかに個人の意思とは関係なく-自己保存機能とは関係なく、といってもいいだろう-、拘束、規制をもって個人の意識や活動を方向付けるかということが理解されるだろう。
    クレイグ・ライス 弁護士マローンシリーズ


    クレイグ・ライスは戦前のアメリカの女流推理小説家。
    マネージャー、ジャーナリストの経歴を持ってたり、ゴーストライターをやっていたんじゃないかという逸話があったり、かなりの酒豪だったりと異色の作家ですね。そして、ライスの代表作が、弁護士ジョン・ジョセフ・マローンがシカゴで活躍する、マローンシリーズです。アメリカよりも日本で人気があるのも面白いところです。

    なんたって、このマローンシリーズは推理小説っていうかコメディです。ハチャメチャが許されるっていう。そして舞台も、都会の喧騒や華々しさ、そして闇が渦巻くシカゴ。
    一応の主人公、弁護士マローンは飲んだくれのアウトロー弁護士。机には酒が入っていて、ギャングともつながってるのだ。
    そして彼の友人の、ジェイク・ジャスタスとヘレン。ジェイクは新聞記者で、ヘレンは美人令嬢。ジェイクは一番まともですが、ヘレンは根っからのお転婆で、車の運転は一級。暴走しています。やがてクラスの違いを超えて彼らは結婚します。

    そして三人をとりまく事件が起こり、ジャスタス夫妻がより事件をかき回し、それを収拾するためにマローンは奔走。本当に痛快で、多分、こんな小説はライス以外では読めないでしょう。この魅力的な三人以外にも、オモシロ警官、ギャング、バーテンなどが次々に登場します。
    とにかく、ライス自身が酒好きだから(このため早くに亡くなりますが)、作中でも各キャラが酒を飲むシーンが多く書かれます。マローンは特にライウイスキー、それとジン・アンド・トニック。この影響で、僕はジントニックを飲み続けていると次第。

    本格推理のようなお堅いのは抜きで楽しめる小説だと思います。本当にキャラクターの魅力と、ドタバタにつきます。マローンは弁護士だけど、一回も法廷シーンは出てこなく、やってることといえば、イレギュラーな裏取引だし。

    新訳も出てきたのは喜ばしいことですが、まだ文庫に収録されていない短編が多くあるので、出版社にはそれらを短編集の形で出版していただくことを望みます。
    ひじり亭
    地下一階にある、少しレトロな感じの吉祥寺のイタリアンレストラン。
    ランチがドリンク付きで850円。パスタの量も大目だし、トマトソースやカルボナーラなどのクリームソースがあって基本的なメニュウがあるし、良い条件は充たしています。
    ゆで方や味付けも良いです。難点としては、プロフェッショナルさでしょうか。きちんと、パスタがかき混ぜてゆでられておらず、数本がくっついて出てきたときは食べられず、それを残したんですが、バイトではなかろう接客係は無反応。
    まあ、それを抜きにしても、吉祥寺では比較的クオリティのあるお店であることはいっておきます。コーヒーも不味くないし。
    ドレスデン国立美術館展 国立西洋美術館



    ドレスデン美術館のザクセン選帝侯のコレクションによる展覧会。
    美術館展といっても、ドレスデン国立美術館は複合博物館的な要素が大きいので、工芸品、装飾品などが多いです。全体的には7つのセクションに分けて展示してます。

    最初は、地球儀、天文儀などの天文学や測量術に関わるものメイン。集光鏡、球儀などは大きくてびっくりします。ついで、オスマンに関わる工芸品や、日本や中国の陶磁器、メダル、印刷物などの展示がずらーっと続きます。多文化に対する関心や、交易などがうかがえます。

    絵画は、17-18世紀のイタリア絵画、オランダ絵画、そしてドイツのロマン主義絵画の三つに分けれます。
    イタリア絵画の見所は間違いなくティツィアーノ。この「白いドレスの女性の肖像」(上左図)はルーベンスの模写もあって有名です。ティツィアーノのタッチは、筆触を消してつるっとした絵肌をつくるものと違って、筆のタッチを生かして、やさしく光があたった感じが表現されてます。見習うべき多い大画家ですね。その他は、風景画。マルコ・リッチという人は、近代的な絵画に通じるものがあるような表現方法をしてます。カナトレットは、少々暗めの風景を、確かな筆使いで精緻に描いてます。ベルナルド・ベロットは均質的な絵肌で、全体的に明るく画面を保って、建物、空、川をダイナミックに構成してます。

    オランダ絵画は、フェルメールとレンブラント。フェルメールは作品数が少ないのですが、人気があるようで、最近は展覧会の目玉に持ってこられますね。「手紙を読む女」は他の作品にも見られるテーマです。フェルメールは、本当に視点を大切にしているし、画面構成が非常に大胆。カーテンなどが画面の前の方にざばっと置いてあったり。この作品はカーテンを後から追加して描いたことが知られているそうですね。こういった構成が、第三者の視点を引き立てます。
    レンブラントは「ガニュメデスの誘拐」。絵画修復で新たな部分が発見されたようです。迫力大。他にも、レンブラント派やヘリット・ダウの作品が見られます。

    ドイツのロマン主義絵画についてはほとんど知らないので新鮮でした。特に、ガスパー・ダーヴィット・フードリヒとエルンスト・フェルディナント・エーメ。フードリヒ(下図)の方は、色の鮮やかさと、大気の表現が見事。木々一本一本を描き分ける正確さもあります。現代でいったらワイエスに通じるような感じを受けました。エーメの絵は幻想的な色調とタッチが特徴的。「霧中の行列」は本当に霧の表現が上手く、神秘的です。他にもヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダールが良い風景画を描いています。



    フィリップス・コレクション展 THE PHILLIPS COLLECTION 森アーツセンターギャラリー


     アメリカの実業家にして美術収集家である、ダンカン・フィリップスのコレクションによる展覧会。
     構成としては、大きく18世紀以前の古典絵画、写実主義・印象派・ポスト印象派、現代絵画の三つに分けられます。それぞれ、エル・グレコ、アングル、ドラクロア、次に、クールベ、ルノアール、モネ、そして、デュフィ、ブラック、カンディンスキーなどが代表といえるでしょうか。その中でも、異彩というか魅惑を放っているのが、ルノワール『舟遊びの昼食』(上図)とアングル『水浴の女』(下図)、そしてボナールです。特にルノアールの絵は、先入観でそれほど大きくない作品だと思ってましたが、実際見ると、大作で迫力があります。それと、明るい光が全体を包んでいる感じです。とにかく、人物が鮮やかに表現されています。アングルの作品は小さいものの、アングルのタッチできちんと裸婦が表現されていて、質の高さが伝わってきます。ボナールの方も、ルノワールに匹敵する迫力と色の複雑さを示しています。
     それと画家の違った側面を見ることのできるのが、コローとクールベ。前者は独特の木々の表現をしていない、初期と後期の作品が見られ、後者はあまり見たことのない空、海の色をした波を描いてます。

     「アートの教科書」をテーマとするだけあって、(主に近代)美術通史的な流れが出せているし、モネ、ゴッホ、セザンヌ、ピカソら人気のある画家の作品が複数来てることに加え、ドーミエやモリゾなどのあまり日本では見ることができない作品も見られます。やはり、コレクションの充実さがあってのことであるし、それらを抽出した良い展覧会になっていると思います。






    GARNET CROW first kaleidscope ~君の家に着くまでずっと走ってゆく~


    ガーネット・クロウのメジャーデビュー前の唯一のインディーズアルバム。
    今でこそ、4thアルバムまででて、それなりのところに位置しているガーネット・クロウの原点となるアルバムですね。アルバムといっても、収録曲は6曲のミニアルバムでとてもシンプルかつ上品にまとまってます。
    ここに収録してある曲、「君の家に着くまでずっと走ってゆく」「二人のロケット」「Sky」はリミックスされてメジャーアルバムの方にも収録されてます(シングルカットリミックスといった方がいいかな)。しかし、インディーズの方が、完成度が低いというわけは決してなく、勿論こちらにはこちらの良さがあります。メジャーヴァージョンに比べて、音が柔らかい感じというか、「君の~」なんかは少しカントリーテイストな感じというか(リズム楽器、ドラムの違いが大きいですね)。それと、今のトコここでしか聞けない「A crown」も良いです。流石、最初から経験のあるプロフェシオナルな人が集まっただけあります。最初からクオリティ高いです。

    とにかく綺麗におさまっていて(しかも値段も手ごろだし)、ガーネットを知るには一番いいアルバム。これを聞いて気に入るか気に入らないかで、以下の1‐4アルバムが聞けるか聞けないかが分かると思います。
    エミール・デュルケム著作リスト
    フランスの初期社会学者、エミール・デュルケムを自分なりに研究するにあたり、彼がどういった著作を残しているか、ということを調べるという作業をしました。そこで作成したのが、以下の著作リストです。
    学術系の、きちんとした著作リストは、50年前の訳本や、仏英で出版された論文などを網羅するあまり、膨大なリストになってしまい、学生身分には縁遠いものに見えます。そこで、ここではそういった手に入らなそうな、読めないような文献を抜きに読める著作をリストアップしました。ただ、残念なことに、ここに挙げた多くの著作は絶版気味であります。なので大きな図書館でしか見ることができなかったりするので、その兆しはあるものの一層の復刊を望みたいところです。

    自分専用につくったリストを、このような簡潔なリストがないように思えたので、老婆心でネットにアップする次第です。それ故に、至らない点もあるかと思います。
    では、諸学生のデュルケムの再認識をささやかに望んで締めくくります。


    Emile Durkheim (1858-1917)

    著作リスト
    ・1893 De la division du trvail social
     『社会分業論』 田原音和訳 青木書店 1980 2005(復刻版)
     『社会分業論』上・下 井伊玄太郎訳 講談社学術文庫 1989   
    ・1895 Les regles de la methode sociologique
     『社会学的方法の規準』 宮島喬訳 岩波文庫 1978
     『社会学的方法の規準』 佐々木交賢訳 学文社 1979
    ・1897 Le suicide : Etudes de sociologie
     『自殺論』 宮島喬訳 中公文庫 1985
    ・1912 Les formes elementaires de la vie religieuse: Le system totemique en Australie
     『宗教生活の原初形態』上・下 古野清人訳 岩波文庫 1975

    死後編まれた著作(論文集)
    ・1922 Education et sociologie
     『教育と社会学』 佐々木交賢訳 誠信書房 1976
    ・1924 Sociologie et Philosophie 
     『社会学と哲学』 佐々木交賢訳 恒星社厚生閣 1985
    ・1925 L’education morale
     『道徳教育論』1・2 明治図書出版 1979
    ・1928 Le socialism (ed. par M.Mauss)
     『社会主義およびサン-シモン』 森博訳 恒星社厚生閣 1977
    ・1938 L'Évolution pédagogique en France
     『フランス教育思想史』 小関藤一郎 行路社 1981
    ・1950 Lecons de sociologie 
     『社会学講義─習俗と法の物理学』 宮島喬訳・川喜多喬訳 みすず書房 1974
    ・1953 Montesquieu et Rousseau (ed. par G.Davy)
     『モンテスキューとルソー─社会学の先駆者たち』 小関藤一郎・川喜多喬訳 法政大学出版局 1975
    ・1970 La Science Sociale et L’Action (ed. par J-C.Filloux)
     『社会科学と行動』 ジャン・クロード・フィユー編 恒星社厚生閣 1988 

    日本で独自に編まれた論文集
    ・『デュルケーム家族論集』 小関藤一郎訳 川島書店 1972
    ・『分類の未開形態』 小関藤一郎編訳 法政大学出版局 1980
    ・『デュルケム法社会学論集』 内藤 莞爾訳 恒星社厚生閣 1990
    ・『デュルケームドイツ論集』 小関藤一郎・山下雅之編訳 行路社 1993
    ・『デュルケーム宗教社会学論集』 小関藤一郎編訳 行路社 1983 1998(増補新版)

    La Soffitta ラ・ソフィッタ
    とてもシンプルにまとまった内装で、場所も渋谷、スペイン坂にある良い感じのミラノ風ピッツア専門店。
    ピッツアの直径は約30センチもあり、値段も1000円ちょっと位です。種類も、豊富にあり、他の店では見たことのないようなものまであります。また、パスタも、乾麺と生麺の両方があり、ワインやサイドメニューも充実しているのが素晴らしい。
    行ったときに食べたのが、まず定番のマルゲリータ。トマト、モッツァレラチーズ、バジルのシンプルなトッピングだが、おいしい。宅配ピザのようなごてごてしたのとは雲泥ですね。三つの具材はそれぞれ、赤、白、緑とイタリア国旗を象徴していて、どことなく気分もイタリアンな感じになります。それと、フィオレンティーナ(フィレンツェ風)。ピッツァのフィレンツェ風なんて預かり知らなかったですが、ここのは、上に生卵が載っかっていて、新しい感じでした。良く、カルボナーラに生卵が載っているものは見ますが。(因みに、ここはピッツァのカルボナーラもあり。)そういうことで、いろいろなピッツアが食べられ、新境地を見出せます。
    また行きたい店ですね。気候が暖かければテラスで食べるのも良いかも。
    バイオグラフィックなコーヒー談義
    人は好みに五月蝿いものである。
    例えば、酒やタバコの種類、銘柄にこだわる人は周りに沢山いることであろう。
    嗜好品の趣味には結構うるさいものである。だが、コーヒーに関してはどうだろうか。少し考えてみたい。

    大人、それも働いている人たちを中心に日常的コーヒーを飲む人は結構いる。また、昨今のカフェブームも考えると、若者もかなりコーヒー志向になってきている。では、コーヒーに身近になっている中で、人々はどのようにコーヒーを対象化し、それと接しているのであろうか、これは興味が尽きない話題である。

    まず、対象化に関わる問題として、コーヒーを飲む人を分類することが基本的な作業になる。コーヒーに砂糖を入れる/入れない、コーヒーに拘りがある/ない、の区別はする必要がある。これは、砂糖を入れるものとしてのコーヒーの対象化が、コーヒーにまだ慣れていない若年層と中間層とコーヒー常飲者との区別に大きく関わってくるからである。
    コーヒー信奉者の取る立場は、往々にして、砂糖を入れない考えでまとまる。つまり、コーヒー+アルファはコーヒーではなく、コーヒーに何かを足した飲み物になり、特にミルクなどを足した場合などは、アレンジドコーヒーの部類になるからである。このアレンジドコーヒーの好みの度合いは各々によっても違うのでここでの談義から外れる。ここでは、何も不純物を入れずに、かなりのハイスタンスを持ち、日常的にコーヒーを飲む人たちを対象に議論しよう。
    さて、この種のコーヒー信奉者は、ブラックコーヒーを飲むわけであるが、その許容範囲はかなりの幅がある。つまり、コーヒーの種類はさまざまであるが、何をコーヒーとするかという認識の問題である。文学の面になるが、コーヒーにはかなりの拘りを持つ名探偵ポワロは、この種の問題を提起する材料を提供している。ポワロは赴く先で、コーヒーをしばしば出されるわけだが、その箇所では決まって、泥水のようで飲めたものではない、というような表現が出てくる。ここからわかる通り、(全てのコーヒーを受容するコーヒー博愛主義者もいるだろうが)往々にしてコーヒー好きは、このコーヒーは不味い、美味しくないと言うことについて、それを美味しいと言うこと以上に専心している、といえるだろう。否定を通して、自分のアイデンティティとなる拠り所を確固なものとして描いていく。砂糖をつけましょうか、と聞かれてきっぱり断る態度、インスタントコーヒーを出されるが口を付けない、もしくは義理で飲む態度、お店である種の固定された銘柄を買い続ける態度、これらにコーヒー好きの信条が現れているのである。この種の行為を通して、彼らは、他との差異化を図り、アイデンティティなるものを獲得しようとしていくわけである。
    ここで一つの疑問がわく。彼らは他との差異化を強調するが、他からの自己承認欲求というものはないのであろうか。いや、あるに違いない。だが、それはかなり難しいことがすぐにわかる。つまり、個人意識の中ではあっても、他との差異を重視している時点で、自分とは趣味の異なる他者に自分を認めてもらうのは難しい上に、コーヒーを仲間で飲むという社会的場面(あるいはそのようなことを話し合う場面)においては、成員間の連帯というものが確認される(同調傾向を伴う)時間であって、否定をともなう自己の嗜好は表に出しにくいからである。程度の差はあれ、認めてもらいたい特殊な嗜好自体が出せないという、ジレンマの状況が作り出されやすくなっているのである。

    以上の考察から、狭許容範囲のコーヒー好きには、一種の自己規律を課す、寡黙なマイノリティであるような側面があることが読み取れる。社会適合的に暮らすならば、過度なコーヒー信奉は邪魔である。しかし、コーヒーにはそれをこえた耽溺性がある。酒やタバコよりも一次的で、パンや菓子よりも趣向が分かれやすいというコーヒー自体の性質にそれは内在する。まとめるなら、それがコーヒーの需要を支えているのであり、何か一種独特な飲み物として認知される要因になっているのだろう。
    MUSICAL BATON
    結構前に、tabelin君にネタを振っていただいたんですが、先延ばし状態でした。やらない理由もないし、先方にもお世話になってますし、自己紹介的な要素も含めて書いてみます。というか、この企画かなり広域化してますな。

    今コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量
    コンピュータは全くもってコピーするようにしか使っておらず、昔はコピーし終わったらデータを消してました。でも全部焼ききれないし、別に消す意義もないということでデータを残しております。とうか専用のコンピュータ自体、持ったのは数ヶ月前なのですが、2.25GBでした。多分にクラシックの勢力が圧してますね。

    今聞いている曲
    ハープ奏者、Maria Graf マリア・グラフの「Recital」。本当に、本気で綺麗な音色。うっとりです!! あまりに良いのに知名度低いので今度レヴューしようかな。

    最後に買ったCD
    ラルクのAWAKE。男性ヴォーカルで唯一購入しているバンドです。メジャー過ぎますか…。

    よく聞く、または特別な思い入れのある5曲
    1.亡き王女のためのパヴァーヌ (M.ラヴェル)
    クラシックを聞くきっかけとなった曲。自己主張は全く激しくなく、ゆったりとした美しいメロディが特徴。

    2.The Forth Avenue Cafe (ラルク)
    ラルクを初めて聞いた曲であり、今でも一番のお気に入り。

    3.愛し愛されて生きるのさ (小沢健二)
    勿論曲は知ってましたが、間違いなくTabelin君の提示がなかったらオザケンなんて聞いてなかったでしょうね。カラオケなんかで歌うと「あれ、歌うんだ?」とかいわれたりするので。そういう意味で新鮮でした。

    4.君の家に着くまでずっと走ってゆく (GARNET CROW)
    本当は小松未歩を挙げたいのですが、すでにマニアック過多になっているので、よりメジャーなガーネットクロウに譲って、彼らの曲を一つ挙げるとしたらこれかな。ついでにいうと、インディーズヴァージョンの方です。

    5.RAINNY DAYS AND MONDAYS (CARPENTERS)
    カレンの美声で、女声の洋楽はお腹いっぱいです。カレンの重低音から徐々に広がってくる声音はまさに芸術。マライアなんて聞けません。

    ま、皆同じだと思いますが、5曲は絞りきれません。漏れた楽曲にも敬意を示して締めくくります。

    バトンを渡す5名
    残念ですがここが一つの終着点ですね。5名といわないまでなら、敢えてやろうとすれば渡せますが、「敢えて」するものではないですし。
    BEST PIANO 100 ベスト・ピアノ100 (東芝EMI)
    piano100.jpg


    クラッシクの分野でトップセールスを記録しただけではなく、一般のアルバムセールスでも上位にランクインした、人気のクラッシクピアノオムニバス。
    まず、六枚組み100曲収録で3000円という安さがこの売れ行きを支えたんでしょう。いくら著作権がきれているからといって、こんなに安く多くの音源が手に入るのは魅力です。
    そして、一番の評価点はその選曲。本当にいいトコを突いた選曲をしてきています。一度は音楽の授業、CM、ドラマのBGMなどできいたことがあるものが多いです。主要な部分はロマン派が占めていて、中でもショパンが多いのですが、それは順当な線でしょう。しかし、それ以外もきちんとしたラインがあります。僕の好む、ラヴェルにしても、「亡き王女のためのパヴァーヌ」をはじめ、「水の戯れ」と「夜のガスパール」・「鏡」からの一楽章があり、教科書レヴェルにさらにもう一段階加えた味を引き出す努力が見られます。
    よって、レンタルCD屋ではクラシックコーナーはあまり発達してないから借りようと思っても借り様がない、かといってCDを買ったりはしない、そもそもどのようなクラシックを聞けばいいのかわからないし、音楽家とかには疎い。こんな人にはうってつけのCDであるといえます。聞き込んだりしようとせずとも、BGMとしてかけているだけで雰囲気をつくってくれますね。6枚のCDにはそれぞれコンセプトが設定されて選曲もされてます。

    最後に難点ではなく、留意点として、演奏家は勿論プロとして活躍する、それなりのピアニストが弾いてますが、ショパンなら個人的に(このCDで演奏している)ジョン・オグドンという人より、ゾルタン・コシシュの方が上手く演奏していると思うし、ラヴェルなら、このCDの演奏者のセシル・ウーセも良いんですが、やはりサンソン・フランソワやモニク・アースでしょう、といったコトがあるので、気に入った曲などはその道を極めてるピアニストの演奏と比べてみるのも一興でしょう。いうまでもなくピアニストによって表現方法は異なりますので。
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