芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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  • TALK BACK
    TALK BACKは吉祥寺にあるイタリアン系レストランで、中道通り(本町2丁目)と、南口方面(南町2丁目)に一軒ずつあります。というか、そもそも本店が中道通り店の近くにあるようなのですが、行ったことないですね。HP見ると金土日しか営業してないとのこと。いや隠れ家ですな。それとTALK BACKって予想通り、辞書の意味では口答えするっていう意味ですね~。

    まずは、中道通り店。
    店が、道路から下がった、半地階にある、変わったつくりですね。内装も、木の床に、木のテーブルがずらっと並んでいて、独特な雰囲気を出してます。店内は薄暗く照明が施されていて、店員さんのサービスも良く、落ちついて食事ができます。行った二回とも、一番奥の隅の席に案内されたせいがあるかもしれないですが。
    メニューはパスタだけでなく、オムレツ、肉料理なども選べます。ランチは大体1000円で、サラダ、スープ、ドリンク、デザートなどがつきます。

    次に南口店。南仏イタリア食堂というコンセプトでやっております。
    ここは、オブジェなど凝ってるんですが、店内が狭い。Bicoque(フランセでバラック、小屋、あばら屋という意味)というのも頷けます。それ故に、カウンターか、相席に案内されるので、中道通り店よりも落ち着けない感じではあります。
    料理内容、料金体系はほぼ同じ。ただ、パスタはアルデンテをしてなかったですね。たまたま、ではないと思いますが。(南仏風なのか??)これは場合によるとは思いますが、接客もいまいち。あと北口も同じかもしれませんが、夜は席料などのチャージがかかりますのでランチに行くのがお勧め。
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    ギャグの諸規準 -類型学的分析-
     ギャグについて考察する。
     社会(心理)学的にそれを分析するならば、主に社会的場面における機能、役割分析になるだろうが、ここでは第一段階の作業として、ギャグの類型について勝手ながら暫定的、恣意的に考える。ギャグのネタは著作権などないがオリジナリティを重視して持ちネタから経験的に引っ張ってきている。

     前提として、ギャグは、1,意図 2,非意図 に分けられる。1は「狙って」というものであり、2は天然、事故、固有人間行動というものに還元して考えることができる。主要な議論となる1は後に回し、2でメインとなるのは、事故、つまりアクシデンタルなものだ。例えば、間違えて熱い鉄板の上に手をのっけてしまった、車で事故りそうになった、こうした予期しない結末を笑いに転換する、また転換されることがある。こうした非意図的な偶然性を伴う事故は、その性格ゆえに、予期せぬ非日常性と、「ありそう」な典型、という両義性を上手い具合にかもし出し、笑いになるのである。しかし、このアンビヴァレンスの配合が上手になされない場合、「笑ってる場合じゃない、ヤバい」か、「古典化されすぎてつまらない」という結果をもたらす。
     では1の考察に移ろう。1の分類として、i.言語的なもの、ii.動作的なもの、iii.両者の混合、あるいはその他視覚的なものなど に分けられる。ここではその主流となるi.に絞って内容を見ていこう。
     まず、言語的ギャグの性格、特徴を概観する。まず、それらには何らかの韻が踏まれていることが往々にしてある。オヤジギャグと蔑称されることもあるこの種のギャグは、一番なじみの深いものである。ここで上手いギャグになりえるのは、韻を結んでいる複数の語に相互関連性あるいは物語性がある場合である。だから、ただ単に、「コンポにコーンポタージュこぼしちゃった」「このコンポ、根本的にイカれてる」なんていっても上手くない。「何々だからこそ、何々なだけに何々」のようなコンテクストがあって「一本とる」ことができよう。勿論、韻が超絶技巧的であればコンテクストなど無視できる。これはまさに押韻-言語的ギャグの究極的目標である。
     第二の性格として、韻と必然的に関わってくるが、語の意味内容の変化を狙ったものが挙げられる(意味内容の変化は基本的に、音を共有する語である必要があり、押韻よりも厳密なくくりになる)。例えば、「本当に彼らの間にはギャップがありますよね?」と言われたとする。この時の切り返しとして「SHIPSじゃなくてGAPですか?」と言った時、ギャップという同音節を持つ語に対して意味内容の変化がもたらされている。この種のギャグは、発想の転換の早さ、また知識領域も問われるだけに、上手く切り返したとき高い効果が期待されうる。この場合、あえて直接音節を共有する語を出さない方が、予測困難性を高めるだけに上手いギャグになるだろう。(つまり、「やっぱマイセン(マイルドセブン)だよな~」「いつから磁器コレクターになったんスか??」ということである。)
     以上、この押韻、意味内容の変化は言語的ギャグの2大要素といえよう。さらに付け加えれば、もののたとえが上手いときそれは笑いの要素が付帯する。我々はこれに対し比喩的ギャグという名称、性格を与えたい。人々はそこに発想の芸術性を見るのである。そのほかには亜流として、奇声、ものまねなどの一発ギャグがあるだろう。この考察に当たって、ギャグの方法論という地平が見えてきた。議論を移そう。
     では、ある種のギャグに含まれる方法として、効果の期待できるものを挙げる。
     第一に考えられる方法論的アプローチは、ある内容を予測させて、裏切るという逆転的発想法である。この場合、重要なのが相手に敢えて「内容を予測させる」ということである。
     個人的に苦手なのであまり上手い例が挙げられないのが残念であるが、挙例するなら「贅沢は-敵だ 欲しがりません-…」と言う。次に相手は「勝つまでは」という内容を類推する。ここで「カツサンド」と言ってみよう。笑いが起きる確証はゼロであるが、これで少しはこの方法論が確認しえたと思う。
     そして、この方法と対を成すのが、思いっきり文脈に関係ないことを突発的に言ってみる方法である。そこには、全く新しい、切り取られた文脈の不可解さ、日常、平凡との乖離がある。それが笑いを呼び起こす。しかし、相手の性格、生活文化背景なども考慮しなければただのマッドネスに終わってしまうことは論ずるまでもない。
     次に挙げられるのがその言葉がその共同体もしくは社会的場面で持つ性格をフルに利用するというものがある。例えば、言葉はその意味内容に加え、使われる場によって付帯的意味合いがあることが多い。その共同体における流行、趣味、タブーなどにこれらは関わる。難点として、これらを利用するギャグは、成員間のある種の同定性につながるが、成員外には内輪ネタとしてみなされてしまうものではある。
     このギャグに関係するのが、予め笑いの要素が広く内在している題材についてのギャグだろう。このギャグは、付帯的意味内容が良く一般化されているので、その共同体による特別な意味合いを抜きにして笑いを提供しうる。ブラックネタ、下ネタ、宗教ネタ、世間一般流行ネタなどがこの題材に含まれる。
     このように見てくるとギャグは、その性格と方法を密接な関係のうちにして体現されていることがわかる。ギャグをギャグとして認識しうるのは、それに、会話を構成しているという主体化された人々がギャグなるものを見出すからであり、10人中、半数が笑ったからギャグとして認識される訳ではない。

     以上、簡単にギャグのアウトラインをスケッチしてみた。無論、この素描は、暫定性、仮設性をもった一部分であるという性格を免れない。最終段階に入って、ギャグの認識論に立ち入ったこともそれを支持しているし、ギャグがたった数ページで概括しうるなどという考えは筆者も持ち合わせていないことは分かっていただけると思う。だから、この分類上の問題を起点として、まだ幾つかの補論が必要である。またの機会にそれは譲ろう。


    『歴史学の方法』 マックス・ヴェーバー
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     ヴェーバーの『歴史学の方法』は、ヴィンケルマン編『科学論論文集』に、彼の名論文『理解社会学のカテゴリ』『社会学の根本概念』『職業と学問』とともに収められた論文である。ヴェーバーを語るとき、往々にして理解社会学、宗教社会学というタームの下にそれはなされるが、歴史社会学という分野においても彼は優れた研究を残していることは言うまでもない。歴史は彼の一連の社会学的考察にとってキー概念であったのであり、特に実証的に宗教、法などを分析する際、それの歴史的側面や歴史的発達過程を無視することは不可能である。よって、彼にとって、社会学的方法論の観点からして、歴史(学)と社会(学)は密接な関係を持っていた。その意味で歴史学は、彼の研究にとってとても重要な役割を果たしていた。歴史学者の存在なくしては、彼の宗教社会学諸論文は日の目をみることはなかった、といってもいい過ぎではなかろう。
     こうした社会学の立場は、ヴェーバーだけが持っていたものではない。一例として、同じ初期社会学の偉大な研究者の一人である、エミール・デュルケムの考えも示しておきたい。彼は、「社会学は大部分ある仕方で理解された一種の歴史学」という認識をしている。つまり、社会学と歴史学は、その研究の方法論は違うにしろ、同じ研究領域を分かつ、一つの実証科学であると捉えているのである。デュルケムのこうした認識も、社会学が必然的に、歴史、そして歴史学的作業と不可分の関係を有していることを示すものである。
     以上、簡単ながら、社会学者の立場から、社会学と歴史学との関係性、そして親和性を概観した。その上で、この『歴史学の方法』の内容に移ることにしよう。
     本著は、ドイツの古代史の歴史学者、エードゥアルト・マイヤーの歴史学理論の検討、批判から始まり、二章中の一章がそれにあてられているのだが、それが全体の基盤をなしているといってもいいだろう。彼はマイヤーを一流の歴史家と評価するも、彼の理論を積極的に批判している。少し長くなるが、ヴェーバーの意図を引用することが一番手っ取り早いし、以下の議論に有用である。
    「マイヤーの定式化の弱点を意図的にずばり捜しだしている以下の批判をも、「知ったかぶり」をしたいという欲求のためだとしないで欲しい。優れた学者が犯す過ちは、学問的に価値のないものの持つ正しさよりも教えるところが多い。マイヤーの業績を積極的に評価することが、特にここでの意図であるということはなくて、まさに逆である。彼が非常にさまざまな成功を収めつつ、歴史学の持つ論理のある一定の重要な諸問題と、いかに折り合いをつけようと試みたかを我々が知ることによって、彼の不完全さから学ぶことがここでの意図なのである。」
     以上を読んで分かるとおり、本著でヴェーバーが試みたのは、歴史学的作業を遂行することでも、独自の歴史学的方法論を構築、展開することでもない。マイヤーの理論の犯した根本的な過りを正すことによって、現行の歴史学的方法論をより有意義なものにしようというものであったのである。
     ヴェーバーのマイヤー批判を見る前に、マイヤーの歴史学的スタンスを確認したい。冒頭でヴェーバーが整理するところによると、マイヤーの歴史学は、「偶然的」なもの、具体的な個人の「自由な」意思決定、人間の行動に対する「理念」の影響を歴史学にとって無意義であり、科学的叙述には必要ないとし、個々人の行動に対しての「集団現象」、「単一特殊」なものに対する「類型的」なもの、「共同体」、特に社会の階級、諸国民の発展というものを科学的な歴史学の対象と定式化したのであった。
     ヴェーバーの批判を待つまでもなく、こうした厳格な、個人表象と集合表象な区別を(自らの内的価値判断に)与え、後者の優位性を説くような理論は、異論や批判を招きやすいことは明瞭である。つまり、いくら線引きを強調しても、集合表象は個人表象からは完全に独立することはできないのであり、その意味で、個人表象を切り捨てていくと、集合表象まで否定しかねない。そして、個人表象に立ち返ろうとした瞬間、最初の線引きはもはや実効的な意味合いを持たなくなってしまうのである。こうしたある種の、科学的考察における個人的なるものと社会的なるものの二元論的類型化は、方法論としてはかなりの有効性をもつものの、突詰められたときディレンマがつきまとう。これは冒頭で紹介した社会学者デュルケムなどにも特徴的に見られるようなことである。
     ヴェーバーも、こうしたマイヤーの定式化の根源的な論理矛盾を追及していく。まず、彼の歴史学で地位を与えられなかった、偶然や、自由、自由意志といったもの考察から始める。それを概略すると、なぜ、自由というものを「非合理性」と結びつけ、切り捨てることにより、歴史学の領域を矮小化しうるのかということである。ヴェーバーのこのような、短絡的ともいえるマイヤーの定式化に対する批判は、社会学的見地に立てばもっともな批判であるといえる。ヴェーバーの個人主義的方法論に鑑みれば、マイヤーの定式化こそ非科学性を持つように認識されるのだろう。「歴史学の対象」の章に移って、ヴェーバーの批判はさらに論理学的な決定的誤りを突いてくる。それは一言でいうと、歴史的現象の実在根拠と認識根拠という問題である。それは、「フリードリヒ四世の上着の仕立て屋」という一般歴史学では参照されない事項をどう歴史学的に扱うかということであり、(紙面の都合、詳述できないが)ヴェーバーはマイヤー定式化の盲点を論理学的に鋭く浮き彫りにしたのである。
     『歴史学の方法』は、勿論歴史学の方法論、認識論を扱ったものだが、個人的には、歴史学と社会学との関係性を再考させるものであった。マイヤーの定式化自体は、それまでの歴史学的方法から見ても、それほど問題になるものではなかったと思うが、しかし社会学者ヴェーバーによってなぜこれほどまでの批判が可能であったか、という側面にそれはあるだろう。


    L’EROE レロエ
    下北沢にある正統派イタリアン。
    学生が入れなそうというか、敷居が高い店であることは間違いない。下手に、Tシャツにサンダルで行くと、入店拒否されそう。まず、下北に疎いと、見つけるのが大変。
    次に、ビルが、店に入るのに、エレベータを二つ使い、フロアーを行ったり来たりするような複雑系なビルで、すぐには店内には入れない。そして、店の雰囲気がやはり、高級店で、店員さんが最初にジャケットを預かってくれるような店である。ここで、僕のような貧困学生はビビッてしまうのだ。
    だから、ここも、ランチに行かなければならない、というより、ランチは、この店の料金体系を鑑みるとお得ですね。前菜、オリーブオイル付きパン、パスタ(スパゲッティーニ)、ドリンク、デザートで1000円。すべてに満足。それと、ゆったり時間かけて食べるべきですね。店員さんに、お早かったですね、なんていわれてしまいます。
    他にも、コースは各種用意されています。一回試したいものです。あんまり他のイタリアンレストランがぱっとしない下北沢では別格なリストランテでしょう。
    Bon Bon French (ユニバーサルミュージック)
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    お洒落なカフェ、雑貨屋にいくと、感じの良いフランス語の歌がかかっている。しかし、誰の何の歌か分からない。そもそも、フランスのポップスなんて全く知識がない。けど、聞いてみたい。というような人、僕も含めて少なからずいることと思います。そんな方には、このオムニバスはお勧め。
    フレンチポップスの歌手、曲名なんて分からずとも、これなら聞いたことがあるという曲が半分くらいは収録されてると思います。「オー・シャンゼリゼ」なんかは教科書にも載ってるし、「夢見るシャンソン人形(フランス・ギャル)」、「あなたのとりこ(シルヴィ・バルタン)」、「シェリーに口づけ(ミシェル・ポルナレフ)」などは日本のCMや映画に使われたりしているので馴染みがあるかと思います。
    収録曲は1960年代の曲からあり、幅広い年代に対応してる感じで、フレンチポップスに入門するには良いでしょう。昔の曲でも、今聞いても全く違和感がないのです。やはりシャンソンのなせる業でしょう。

    十兵衛ちゃんRETURN-ラブリー眼帯の秘密- 漫画/むっちりむうにい
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    1999年に放送されていた同名アニメの漫画。
    原作はおじゃる丸などの原作でも知られる大地丙太郎で、作画はむっちりむうにい。同人や挿絵、4コマみたいな単発の仕事はあるのですが、このような話数がある一巻本漫画は、きちんとした形では初といっていいでしょう。

    僕がむっちりむうにいの絵を注目したのは、PSゲームソフト「ファイアーウーマン纏組」からです。このゲーム、とにかく、いってみると、学園恋愛シュミレーション格闘アドベンチャーというすごいゲームでした。初回生産限定でドラマCD二枚ついていて、ゲームの方も、すごくつくってあるんですよね。機会があればレポートしたいですが、もう入手不可な上にマニアック過ぎますかね。

    「十兵衛ちゃん」は、タイトルからも分かる通り、柳生十兵衛をパロディ化した剣劇漫画なんですが、内容はバトルじゃなくギャグ路線まっしぐら。ところどころのギャグは面白いのですが、そんなに大したストーリーテリングがあるわけではありません。
    それでもこの漫画が良いのは、やはりむっちりむうにいのほのぼのとした作画と、笑いを追及したドタバタ感でしょうね。主人公の設定からもうコメディ性を志向してます。柳生十兵衛がつけていた、ハート型のラブリー眼帯を継承する二代目十兵衛が、ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーん、の天然系女子中学生だなんて…。

    個人的に残念なのが、むっちりむうにいの周辺環境が落ち着かないこと。
    好評だった「ファイアーウーマン纏組」は作成元がつぶれて、発売前からパート2を示唆してたはずが全て白紙、そして纏組の4コマ、プチ漫画はまとめられることはないまま。
    十兵衛ちゃんにしても、一旦絶版化したのが復刊してそれも今では品薄、半絶版気味に。十兵衛ちゃん2はアニメがスタートする前から漫画化されていたものの、雑誌が廃刊し、かろうじて電撃大王に移ったもののそれも発売されないまま(版権の問題なのでしょうか?)。
    そしてその他の漫画も絶版、入手困難な状態。さらにHPは長期閉鎖中。
    今ほぼネットのみで手に入るのが十兵衛ちゃんと短編集くらいです。いや残念です。ともかく十兵衛ちゃん2は出してもらわないとむっちりむうにいの作業は何だったのか、ということになるので。

    そういうことで、こんなに画力があって魅力的なキャラクターを描ける作家が売れないのは疑問です。今後も気長に期待し応援していきたいと思います。大地監督が十兵衛ちゃん3について言及してることもあるので…!

    シャンゴ SHANGO
    前橋、高崎(伊勢崎にもあります)でイタリアンレストランといったらシャンゴという感じの伝統的かつスタンダードなお店。小さい頃から通いに通い、通算来店数は三桁いってます。
    このリストランテは、店内の雰囲気、接客が良く、安くて美味しい料理をお腹いっぱい食べられるという、一番の評価点を満たしているんです。スパゲッティ、ピッツァ、ドリア・グラタン類、肉料理、前菜類など品数が豊富で、スパゲッティの普通サイズが、他店で言う大盛り並み、それ以上あります。まず、東京ではそうないのでは。
    特に、北イタリア風チキンドリア、マーレトマト、地中海風煮込みスパゲッティは美味しいです。それと、ここのペスカトーレは、スープスパゲッティになっており、珍しい感じ。
    サラダも、カニサラダ、シ-ザーサラダが美味しく前菜にはもってこい。本当に、大衆向けイタリアンレストランはこうあるべきという模範を示してますね。店によって、料理のテイストが少し違ったりもします。
    最後に、コーヒーはかなり自分好みの味なのも良いです。
    それと、時期によってコース、レディイスメニュウもあったりします。
    全ての群馬県人をシャンゴへ!
    『るろうに剣心』再考
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     『るろうに剣心』を簡単に説明するならば、明治11年を舞台とした剣劇漫画であり、浪漫譚というサブタイトル通り、只単にアクションに終始することなく、各人物の生き様や精神的描写に重きをおいた作品、であるといえます。
     内容は、偽抜刀斎事件編、弥彦編、斬左編、黒笠編…と、細かく分けることができますが、こういった作業はムックに任せるとして、大まかに、東京編、京都編、人誅編の三編に分けられ、流れの良い、まとまった作品に仕上がっています。これは、好きな作品でも、ダラダラと続くことによって、作品の質が落ちてしまう漫画は良い作品とは言えない、という、和月氏の主義を反映したものであり、これが作品に展開や辻褄の良さや矛盾しない一貫性を与えています。
     
     るろうに剣心の素晴しさを表わすものとして、キャラクターの魅力が一番に挙げられます。
     るろ剣において、完全無欠なキャラというものは存在しないのです。何かしら弱いところを持って、それぞれの独特なスタンスを持って生き、戦っています。
     主人公の剣心を見ても、ずばり作中で比古師匠が指摘しているように、剣腕は卓越していても、すごく精神的に弱い面があります。例えば、剣心が十年来心に誓ってきた「不殺」の信念でさえも、薫がいなかったら…、赤空の最後の一振りが逆刃刀でなかったら…、という際どいラインで結果論的に守られた産物であるし。それに加えて、大久保卿暗殺後に、神谷道場を去ってしまったり、(ダミー)薫が殺された後、長く落人群に閉じこもってしまったりという事例もこの辺のことを表してます。
     けれど、剣心の人生を見ると、作者のテーマ通りに、「贖罪」というものをどうやって成し遂げるかがきちんとした形で描かれています。表面的に作品を読んだだけでは、あまり「贖罪」というテーマを読み取りにくいですが、ただのバトル漫画で終わらない要素が各所に見られます。例えば、京都編では、単なる自分の命の投げ出しでは、贖罪にはならいことから、生きようとする力は何よりも強いことを悟り、志々雄に勝利するし、人誅編では、罪の償いのためだけに戦い、生きるという、いわばネガティヴな動機付けではない形の生き方を見つけます。
     このような、キャラクターの物理的な強さ、力のレヴェルアップ以外の、人間としての成長は、ほとんどの主要キャラクターについて描かれてます。読み込んでみてください。まさに和月氏が自分のキャラクターを大切にしているところだと思います。

     次に、このような物語としての素晴らしさ以外の魅力は、やはり和月氏の描く絵でしょう。小畑先生を師匠と呼ぶにふさわしい絵です。最初の、書き込みが多く、雰囲気の出た画風も良いですが、京都編がスタートしてからの画風が個人的にはベストです。以後、だんだんと書き込みを減らし、ディフォルメされた絵柄へと変化してくわけですが、これは作者の価値観が変わったということであり、(一部から)残念だ、などといっても仕方ないところです。僕が見るところでは、ディフォルメよりも、線が硬くなったところが気になりますが。

     人誅編後、北海道編や、第二世代編的第二部の草案があったらしく、連載終了後、二つの短編があったものの完全に終了してしまい、もう少し続編を書いて欲しかった感はファン心理としてあるでしょうか。
     因みに、北海道編は、十本刀崩壊後、屯田兵となった破軍の不二、服役中の安慈、北に向かった宗次郎、さらに当時北海道にいた、元新選組二番隊組長永倉新八など豪華キャストを絡ませて進行するものだったらしいのですが、こういう「草案」という形で終わってしまっていると、実に気になりますね(剣心華伝のサイドストーリーで明治十五年には、斎藤一も北海道で任務遂行中であることが判明しているが、これって、実は北海道編の布石だったのか、まったく剣心の預り知らないところで北海道編が進行していたということなのかな、とは思わせる運びではあった…)。というより、こういう第二部議論は、作者のスタンスに反するし、最終巻で和月氏自身がきっぱりと否定している時点で、過去においても現在においても、あまり意義がないですが。

     『るろうに剣心』は、多角的な読み方ができる漫画だと思うし、その意味でも、今でも剣劇漫画の代表作であると思います。新しく読んでみるのも、もう一回読み返してみるのも良い作品です。


    魅惑の17-19世紀フランス絵画展 損保ジャパン東郷青児美術館
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     南仏モンペリエにあるファーブル美術館から作品がきています。このファーブル美術館、2002年から改修工事のため来年まで休館し、世界中に作品を巡回させています。こんな改修工事がなければ、これほどの作品は数、質とも来なかったのではないでしょうか。そういう意味で貴重な時期での展覧会です。
     展覧会名そのままに僕の趣味をストライクしてます。プッサン、シルヴェストル、ダヴィッド、ドラクロア、コロー、ミレー、カバネル、トマ・クチュール、クールベetc.。この時代を代表する錚々たる画家たちの作品が集まっています。特に、ダヴィッド以降の絵画的な流れは、それまでの絵画を総べ、いわば、近代絵画に対抗する伝統絵画の最隆盛期として見ることができないでしょうか。彼らは、それまでの絵画技法を大切にしながらも、それより洗練された絵画技法をリプレゼントしてると言えないでしょうか。僕のこのような、18-19世紀のサロン側的な絵画の評価は、ともすれば過大評価なのかもしれませんが。(勿論、ここで挙げた彼ら全員がサロン、体制側の価値観を持っていたわけではありません。ただ技法的には、古典的、伝統的技法を解釈したもの、として見ることは誤りではないでしょう。ここではあくまでも、印象派以後との比較において生ずる意味において、です。また、18-19世紀絵画がすばらしいといっても、例えばラファエロよりすばらしいのか? ということでは言うまでもなくありません。彼らが、印象派を否定した古い価値をもった頑固もののような文脈で切り捨てられることに対しての再評価なのです。)
     展覧会は、絵の前に、ほぼ白線をひいたりすることなく、見たい距離で自由に見れます。この中で、特に光ってたのが、カバネル(下図)とクールベ(上図)でしょう。
     カバネルは、ナポレオン三世が絵を気に入り、買い上げられた「ヴィーナスの誕生」で有名だと思います。モンペリエ出身だそうで、死後にファーブル美術館に作品を遺したそうです。彼の絵は、日本では何処で見られるんでしょうか? 僕は知りません。ということで、このような機会が無いと、お目にかかれません。すごく色彩が鮮やか、且つ品がよく、一言で言うなら魅惑的な絵です。
     クールベは、このブログで紹介したクールベ美術館展の作品が、主に風景画であったのに対し、今回のは人物画中心。どれをとっても感嘆です! 特に大作「出会い、こんにちはクールベさん」(おかしいようなタイトルだけど、本当に「La Rencontre ou Bonjour monsieur Courbet」なのでそうなる。)は、明るくただっ広くひろがる草原を背景に、クールベと彼のパトロンのブリュイアスとの出会いが、両者を対照的に描くことで面白く表現されています。こんなところで実際は出会ってはいないだろうが、このような背景、人物表現で「出会い」描くことに、当時の人たちが批判したのも無理ないですね。その意味で、クールベの前衛性を示す良い作品。

     他の作品も見ごたえあるものばかりです。今回のように、17-19世紀のフランス絵画を一望できる展覧会は貴重です。これから各地を周るようなので、印象派以後以外の絵画の良さを、多くの見た人が実感できる機会だと思います。

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    リストランテ文流 国立店
    国立、高田馬場、池袋に店をもつイタリアンレストラン。
    国立店はまさに隠れ家的なお店でしょう。イタリア国旗がなければすぐには気づけない。1Fにあるのにもかかわらず、道路からは見えなく、少し小路を行くと、雑貨屋、ブティックとならんで、外観良くお店がある。まさに国立テイスト。店内は広く、感じの良い雰囲気。地下もあるみたい。まず、接客が良いですね。そこらへんの三流アルバイトは使ってないぞ、って感じで。
     ランチはA、B、C、に分かれていて、どれもお得。Aはサラダ、パスタ、ドリンクで980円。パスタもたまにニョッキがメニュウに加わる。ドリンクはカプチーノなども選べるのが嬉しい。パスタも味付けが良く、落ち着いた雰囲気で食べられて、ゆったりできます。デザートも各種用意されています。
    このお店、珍しいことに、イタリア料理研修旅行、国内での料理講習会など毎年開催してるそうです。オフィシャルHPもあるので見てみるもの良いでしょう。
    「ちびっこ吸血鬼」シリーズ


    『ちびっこ吸血鬼シリーズ』は、日本では1990年前に刊行され始めた、アンゲラ・ゾンマー・ボーデンブルグ著の、ドイツの子供向けのファンタジー小説です。
    僕が読んだ初めての小説で、小学生のころから中学生になるまで、毎年一巻くらい出され、16巻で完結しました。まだ図書館に入らないかなと本棚をチェックしたものです。そういう意味で、今でもとても大切にしてる作品です。
     
    ハリーポッターからいろいろなファンタジーが輸入され始めたけれど、僕はあえてこれを奨めたいですね。内容は、吸血鬼マニアの、ごく普通の小学生アントンが、ちびっこ吸血鬼のリュディガーと出会い、いろいろな冒険をおかしながら親交(?)を深めてく、というもので、アントンに熱を上げる、リュディガーの妹のアンナもからんで、この三人が人間、吸血鬼という違いにもかかわらず、互いの生きる場所、人間界・吸血鬼界をインターに活動します。

    勿論、それまでの吸血鬼は、人間に対立するもの、敵として描かれてきたので、リュディガー、アンナ以外の吸血鬼は基本的には、アントンにとって危険な存在です。それでも、それぞれの吸血鬼が、きちんと性格を与えられた、とても人間身のあるキャラクターとして描かれていて、独自の世界観が魅力的につくられています。
    そして、永遠のときを生きる吸血鬼と人間のアントンには別れが必然的にあるわけで、最後は感動的な別れと物語は進んでいきます。いわば、人間として自らの世界を生きていくためのアントンにとっての、そして一人前の吸血鬼になるためのちびっこ吸血鬼たちにとっての独り立ちです。
     
    この作品、イラストレーターのひらいたかこさんが絵を描いており、それがとても魅力的なんです。本当に個性的なキャラクターをそのままに描けていますね。一回、本場ドイツではどのような挿絵になっているのか、と調べたんですが、これがまた洗練からかけ離れた絵で、ひらいたかこさんの功績を痛感しました。
    ドイツの絵がそのまま、だったり、それに引っぱられた絵でなくて良かったです。そうだったら読まなかったかもしれませんし…。
     
    最後になりましたが、この小説、確かに子供向けなのですが、受容する感覚がある人ならだれでも楽しめます。全巻あわせたら長編小説にもなるし、近くの図書館にでも入っていたら一読してみる価値はあります。アメリカ・ドイツ合作で映画化(見てないがパロディに近いかも。設定がかなり異なります。)もされたようです。ああ、お金と本棚があったら全巻買ってみたい…。
    il Cuore イル・クオーレ  
     とにかく、群馬県前橋市(川原町)にあるのが不思議なくらいすばらしいイタリアンレストラン。
     店は、吹き抜けの二階になっており広く、二階のテラスはガーデニングされておりおしゃれ。内装も、シャンデリア、ランプ、絵、家具類に至るまで洗練されており、店内にあるピアノは夜に生演奏されるらしい。使っているシルバーも凝っていて、接客も良い。本当に、店内が上質すぎて、店外に広がる前橋の景色とアンバランスさを感じてしまう。
     もちろん、だしている料理も美味しく、ランチはかなりお得。サラダ、スープ、パスタ、ドルチェ3品、ドリンクがついてきて、1280円。これは、もう東京では考えられないですネ。おまけに、サラダにはポテトがついていたり、パスタはスパゲッティとフェットチーネから選べたり、パスタ以外にもピッツァがあったり、ドルチェはケーキ、ジェラートなど10種以上あり、ドリンクはバリエーション豊富でアルコールもあったりとプラスアルファ、オプションの部分が大きいのも嬉しい限り。特に、ドルチェが一人3品も食せるのは革新的ですね。コーヒーはお変わり自由なので、ドリンクをコーヒーにしてゆっくりしたい感じ。スタンプカードも発行している。
     まあ、群馬県人しか行かないでしょうが、パスタ好きの県人のために奨めます。