芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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    P.D.ジェイムズ コーデリア・グレイシリーズ
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    P.D.ジェイムズが英米ミステリにおいて、確固とした地位を築いてから、だいぶ久しくなっています。ジェイムズは、同じイギリスで、女流、同年代といえる、ルース・レンデルと良く比較されますが、彼女の作品は、レンデルと比べものにならないほどの、重厚感、文学性が感じられます。
    確かに、この点が、彼女の作品の、推理小説として読んだときの、ある種の退屈さを一部に与えてしまう結果になっていることも否めませんが。

    ここでは、その点を差し引いても、面白く、且つ、すぐに読める、そして、僕が英米ミステリを読むきっかけになった、コーデリア・グレイシリーズについて書きたいと思います。


    まず、探偵が、うら若い(美)少女であるという設定には、現実性を重んじる推理小説では、かなり無理があり、従来の伝統的な推理小説ではほとんど例がなかったのですが、ジェイムズは、コーデリアシリーズでその問題に挑戦します。
    つまり、コーデリアという、うら若き少女を、雇い主の探偵の死によって、その仕事を引き継がなくてはならないという設定の下、合理的に探偵にしたてたのです。

    コーデリアは、それ以降確立される、若く魅力的な女探偵の先駆だったわけであり、英米に遅れ日本でも盛んにつくられた、なぜか決まって、美人で魅力を惜しみなく振りまく女探偵は、ほとんど、二番煎じにもならないようなものといえるでしょう。
    それほど、推理小説史上の金字塔的な作品として、コーデリアシリーズを位置づけることができるのです。

    ここでは、詳細に触れることはしませんが、内容には、女探偵である、ということが魅力的に移る部分は勿論書かれていますが、女探偵であることの困難性もきちんと書かれており、それを含めて、物語の質を高めていると思います。
    そのような点が、意識せずとも、コーデリアを応援し、彼女と同じ視点にたって物語を見てしまう、読者のシンパシーを呼び起こします。


    最後に言っておくと、このコーデリアシリーズ、二作しか書かれておらず、かろうじてシリーズになっていることに加え(ジェイムズのダルグリッシュシリーズに少しだけ、ほんの数ページ記述がありますが)、二作目が書かれてから、20年以上の月日が流れております。
    しかも、未だに新作を書く現役とはいえ、ジェイムズは、数年に一作を書く遅作家であり(それほど彼女のプロットが緻密であるということです)、80をこえる老人。
    あぁ、あの事件の後、コーデリアはどうなったのか、ファンはかなり知りたいはず。だけれど、もうほとんど三作目は期待できないのです。
    最後に、コーデリア完結編を書いてほしかった。絶対、書けばミリオン超え確実のベストセラーになったことは明らかですが。

    『女には向かない職業』、『皮膚の下の頭蓋骨』、いずれも早川書店です(ピクチャアには英米版を載せてみました)。探偵小説に少しでも興味がある方には一読を薦めます。
    映像化もされているということで、少し気になるところ。
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    La felicita ラ・フェリシタ
     国立にあるのにもかかわらず、学生にはあまり知られていないというか、行かれていないだろう、残された良いイタリアンレストラン。多分ディナーコースとかが高いから、二階にあって店の感じがわかりにくいからであろうか? 店内は細長く、多少は狭く感じるが、それでも、落ち着いて食べられる。周りがほとんどマダム達であるからである。
     味質ともに多分国立で一番だと思う。きちんと、アルデンテが意識して作られているし、メニュー見ても本格的。
     ここは、ランチが非常に、お得。まず、食前酒(ワイン/ビール)、スープ/サラダ、パスタ、コーヒー/ティーで1050円。これに付け加え、なんと二段階の大盛りがフリー。それと、パスタはスパゲッティ以外にニョッキがメニューにある。もちもちした食感がとてもいい。というか、他店ではあまりお目にかかれないので試すには良い機会。また布切れパスタなど変わったパスタもある。
     ランチコースやディナーコースは他にもあるので余裕があるときは試してみるといいと思う。もちろん、値段に比例して良いものが出てくる。また、ショーケースにデザートが並んでいて、食後にお腹に余裕があれば頼んでもいいでしょう。
     とにかく、シェフのこだわり、コンセプトがよく示された店。学生に汚染されてほしくないので誰にもPRしてません。
    死についての小論考
    最近、社会においても死が焦点化されることが多かったようだし、個人的にも死について考えることがあったのでここで少し死についての考えを示しておきたい。

    一般的に、死への恐怖は、自分が死んだ後も、それとはまったく関係なしに世界が進んでいくことへの恐怖だと認識される。確かに、明確にこのように意識している者は少ないかもしれないが、根源的には正しいといえよう。死の恐怖で、肉体的な苦痛への恐怖を挙げるとしたら、それは死に直面した人が感じるものであって、一般の人が感じる死の恐怖とは別次元のものである。

    さて、人が死を対象化するのは、大きく分けて、ある人、ある存在が消えたとき、また、ここでは詳しくは語らないが、自分の死が予測できるときの二つである。
    前者の、ある存在が生をやめたとき、往々にして、主体には悲しみという感情が伴う。言うまでもなく、それは親しさの度合いによって、左右されるわけである。
    そこには、多分に、喪失感が介入する。その存在は、唯一無二の存在であり、いったん死んでしまえば、取り返しのつきようがないということである。この意味で、ある生命、存在はかけがえのない大切なものである、という言説が有効性をもって立ち現れてくる。人だろうが動物だろうが、死んでしまえば、それを受け入れざるを得ない。たとえクローンが作れたとしても、正常な感覚からすれば受け入れがたいのである。

    しかし、命の重みは地球よりも重い、といったこの種のレトリックの空虚さは、現代社会を生きるものならほとんど誰でも知っている。高度情報化された社会での、ある個人がもつ情報の中では、何百、何万もの死がある。われわれは、これらひとつひとつに、いちいち立ち止まって悲しんではいられない。それらの死に悲しみを示さなかったとして、だれがその人を薄情な人だと責めることができるのか。
    もうここでは、死は非日常の特別化された出来事ではない。「またどこかで人が死んだんだって… 殺されたんだって…」というような認識でしかない。
    情報化社会以前にも、ある個人の外の世界では、関知し得ない多くの死があったわけであるが、現代では、それが逐一拾われていく(そして事件性を帯びない無数の死がその下に広がっている)。そして、死についての、二分化した意識(あるときは酷く悲しみ、またあるときはなんとも思わない)を各人に強いる。そこの二分化された意識の境界で、われわれは死を捉えていくほかない。矛盾した感情に疑問を感じるか、なんとも思わないか、ある死を経験することのよって意識が変わるか、変わらないか。多くの死がある中で、各人の分岐点もそれなりにあることだろう。

    最後にいっておくが、親しいものの死も、時間とともに、客観的に考えることになるし、それは乗り越えられるべき事実であろう。その死は、「悲しみ、過去の愛情を呈示すべき事実として」、よりも、「それによって、自己の考え方、生き方を反省すべき事実として」、重要性を持っているように思えるのである。
    ベルギー象徴派展 Le Symbolisme en Belgique ‐Le réel en abime‐ Bunkamura ザ・ミュージアム

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     19世紀末から20世紀初めのベルギーで活躍した象徴派と呼ばれる人たちの作品を集めた展覧会。この時代はやはり、フランスを見ると顕著なように、絵画の転回点として見ることができますね。僕はベルギー絵画のことは、この展覧会までほとんど知らなかったので、とても良い機会でした。日本では彼らの作品を見る機会はあまりないでしょうから。

     一くくりに象徴派といってもいろいろな作品がありました。
     その中でも、やはり目を引くのが、レオン・フレデリックとフェルナン・クノップフです。
     レオン・フレデリックの方は、前に行った「ミレー展」で数枚見ていたので画風は知ってました。そのときは、貧しい民衆の姿を描いた絵だったので、ああ、こういう題材を写実主義的に描く人なんだ、と思ってました。しかし、今回来た作品を見てびっくり。宗教的な題材を扱った作品が多く、ただの自然主義画家でないのが良くわかりました。本当に、この人は、迫力、色彩の輝きを持った絵を描いてます。一級の絵画技術が見れます。
     クノップフの方は、名前は知らなかったのですが、作品は図版で知っていました。彼の作品が一番、象徴主義を表してます。柔らかい幻想的なタッチと、寓意性、装飾性を持った構図、構成。女性なんかをみると、やはりラファエル前派の影響、それもロセッティの影響が顕著ですね。飾られていてとても綺麗で、恍惚を誘う作品でしょう。
     それと、異色なのが、ジェームス・アンソール。彼の展覧会もやってますが、こちらの展覧会では周りと比べて彼の作品の独自性が光ります。今回の作品を見る限り、100年以上前に活躍したとは思えません。とても前衛的、先駆的で、現代的作品に通じるものがあります。

     全体的に見て、象徴派と呼ばれる画家は、古典絵画にない明るい、パステルチックな色調と、現実性を排除する、寓意的、物語的、装飾的な構図が目立ちます。本当に、不思議で、幻想的、そして不可解な妖しさをもった世界に触れることができました。

    クールベ美術館展 A la Rencontre de Courbet 三鷹市美術ギャラリー
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    フランスのレアリスム(写実主義)の画家、ギュスターヴ・クールベ(1819‐77)の展覧会。今回の展覧会は、クールベの出身地である、オルナンにあるクールベ美術館から作品がきています。まったく、オルナン(フランス北東部のスイス国境沿い)にある作品が三鷹で見られるとは。

    簡単にクールベを紹介すると、当時のアカデミックな絵画に対抗して、積極的に、田舎の風景だとか、人物、動物、また波などのテーマを取り上げ、それを現実に忠実に描くというレアリスムを確立した画家で、後のマネや印象派にも大きな影響を与えました。またこの人、政治的な信条も持った人で、パリ・コミューンに参加し、後、逮捕、禁固、罰金を科され、亡命もしています。さらに、サロンに自分の作品が拒否されると、パリ万博のときに、自費で、個展を開いてもいます。

    展覧会の構成は、クールベの油彩、ペーパーワーク、関連資料に加え、その周辺画家の作品の展示となっています。今回のクールベの作品は、風景画が多数です。あまり、人物や動物画がないのは残念ですが、それでも見ごたえある作品ばかりです。
    一度にこんなに見られる機会は、村内美術館にいくか、山梨県立美術館に行くかしないとないでしょう。展示に関して言えば、かなり、床に引かれてる白線を越えて見ることを警戒してますね。白線を踏んだだけで注意されました。まったく、村内美術館を見習ってほしいです。Bunkamuraでさえ、白線はあってないようなものだったけど。

    作品を見ると、やはりクールベはそのものも質感を油絵の具で捉えるのが大変うまいですね。人物なら、顔は古典的につやっぽく描いていて、服はゆったりとした布の質感が押さえられているし、風景画なら、ごつごつした石の感じや空、水の様子が、写真みたいにではなく、それ自体の様子が分かるような描き方で表現されています。特に、リーフレットに載っている、「シヨン城」(上図)は評価通り良いです。

    この展覧会で新しく知ったのは、クールベは、近くの画家仲間をアトリエに入れて、彼らに仕上げ前まで描かせ、主に最後にクールベが完成させるという共同作業を行っていたということ。クールベがこのような一種の工房的な作品を作っていたのは驚きでした。さらに、この共同制作者たちの絵も展示されており、クールベとの比較ができます。

    最後に一言。図録が小さく、絵の細部が分かりにくいのが惜しい。もっと払っても良かったから、絵が大きく載った図録を作ってほしかった。
    展示自体は人が少なく、ゆっくり見れます。ゴッホ展との差が激しいですね。個人的には、クールベの方が、絵画史的に重要であると思いますが。この展覧会、三鷹を皮切りに、新潟、愛知、京都、北海道etc.と各地をまわります。これでクールベの重要性が再認識されるといいですが。
    ゴッホ展 東京国立近代美術館
    オランダのクレラー=ミュラー美術館とゴッホ美術館から作品が来ています。ゴッホの作品は油彩中心の、約30点。

    僕は、GWの5/4に行きましたが、昼過ぎには、約300mはあろうかという長蛇の列。
    待ち時間は80分ということで出直しました。果たして、ここは美術館なのかわかりません、という感じでした。日本人はゴッホがかくにも好きなのか、と見せつけられましたね。
    そういうことで、人が沢山い過ぎて(勿論、僕もその一人なのですが。)、見るような環境ではありませんでした。後ろから作品の存在を確認することはできます。

    ゴッホはポスト印象派(後期印象派ともいわれますが誤訳。)の一人として数えられます。
    自論としては、ポスト印象派から、従来の絵画は崩れていくように思えます。
    僕には、絵画構成、技法などの見地にたって考えると、従来のアカデミックな絵画と逆行しての、印象派―ポスト印象派というような流れ、区分よりも、古典作品の流れがいったん印象派で終わり、新しい絵画の出発点として、ポスト印象主義があるように思えます。(後期印象派というような誤訳もあって、ひっくるめて考えられがちなのでしょう。直訳は印象派以後という意味なのに。)
    その特徴には、印象派を超えた超現実的な色彩と、タッチ、またパースペクティヴの崩れなどがあげられるでしょう。
    確かに、ゴッホはギリギリのところで従来の絵画規則を守った(印象派的な)作品も描いてますが、ゴッホの代表作、一般に膾炙している絵は、上のような特徴をもったポスト印象主義として位置づけられます。
    このポスト印象主義というのは、ほとんど特定の絵画技法では割り切れませんが、印象派の技法を、各画家が独自に咀嚼して昇華させた形としてあるのでしょう。
    ゴッホも印象派、その周辺の画家、さらには古典画家の影響を受けて独自の絵画を完成させたわけです。このポスト印象派の位置づけは、また改めて論じたいところです。

    展覧会の内容は、ゴッホをメインにその参考資料や、周辺画家の作品を展示するというもの。
    ゴッホの作品は、風景画などを中心にいろいろな題材がありました。僕はほとんどが初めて見る作品でした。個人的には、周辺画家の方が興味が深かったです。ミレーやセザンヌ、モネ、ピサロなどです。特にミレーは良かったです。

    うーん、具体的には書けませんね。もっとゆっくり見たかったです。なぜ、日本人にはゴッホがうけるのか、これはまだまだ謎です。
    concept
    今日から始めます。

    内容は、芸術、音楽、趣味一般、自己の考え方についてのエッセイ。
    なるべく、一般性を考えた記述を目指します。
    折に触れて更新しようかと。
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