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  • ジェーン・オースティン 『説得』
    久しぶりにオースティンを読みました。
    『説得』('Persuasion')で、これはオースティンの死の前年に完成し、死後出版された遺作とのことです。

    以前に感想を書いた、『マンスフィールド・パーク』よりも話は短く、入り組んだ印象はないのですが、物語前半の構成は同様に退屈であり、何回か読み進めては放棄し読了に時間がかかってしまいました。
    『高慢と偏見』、『マンスフィールド・パーク』と大きく言えば同様のテーマや情感を描いているので、やや、またこれか、という感じを受けないわけでもありません。
    構成、展開も非常に似たテーマ性があり、男女間の表面的な思い込みや一方的な価値・評価の付与から、真の理解・和解の段階を経て、そして結婚へと至る工程が描かれていることも挙げられます。
    また、その過程で、高評価をしていた人物が実は全く別の人物だったという暴露(もっといえば作者という高見からなされる、エピローグでの強引なつじつま合わせ)が、これも『マンスフィールド・パーク』ばりに散見されるので、オースティンの様式美になっている趣も感じました(父親が娘アンには愛情がなかった、という記述も登場します)。

    上記2作品同様に、『説得』も、主人公アンと過去の婚約相手ウェントワースが出てきた時点で、物語の結末はおおよそ分かってしまいますが、曲道を経ながら大団円へと至る道筋、アンの感情や相手への期待の揺れ動きを楽しむのが本作への接し方かと思います。
    アンは準男爵家の出で、結婚相手は好きに選べませんし、自分にも良家の娘という自負もある。そして父親や母親代わりのラッセル夫人からのお目付けもある。そういった出自・アイデンティティや制約・しがらみのある中で「説得させられたり」、自制しながら生きていくわけですが、何が最善の結果かも分からずに立場や状況において選択肢をとりあえずのところ選び(あるいは選ばされ)生きていくしかない。その過程には無数の並行した世界の結果があることを示唆しており、それらに思いをはせたり現状に納得しながらなお暮らしは続いていく。アンは過去周囲に説得されて婚約を破棄した結果も最終的には受け入れて、紆余曲折を経た強さをもってウェントワースとともに人生を歩んでいく内容となっています。
    アンが説得に屈せずにウェントワースと結婚する、チャールズ・マスグロウブと結婚する、ウィリアム・ウォルター・エリオットと結婚する、などいくつかの可能性が作中示唆されていますが、それをせずに適齢期を逃しつつも、最終的には過去の説得とその結果の破談を受け入れ、かつ今度はそれを乗り越えて自ら選択しなかった選択肢を改めて選択し幸せをつかんだアンの実直さはこの小説のハイライトになっています。
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    ジェーン・オースティン 『マンスフィールド・パーク』
    ネタばれあり感想です。
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    『名画の謎を解き明かす アトリビュート・シンボル図鑑』
    『名画の謎を解き明かす アトリビュート・シンボル図鑑』
    平松洋著
    2015、KADOKAWA

    以前に、『名画で読み解くアトリビュート』(木村三郎著)という図像学の入門書を紹介したことがあったが、本著もその位置づけにある格好の手引きである。
    絵画を見る際には、第一義的にはアトリビュート(=持物、帰属物)そのものの知識は絵を楽しむという原体験において必要はない。しかしながら、描かれたものの理解、主題の解釈(客観的なもの、また画家自身の解釈)ということに踏み込もうとする際には、アトリビュートやシンボルの理解が欠かせない。
    とはいうものの、西洋の宗教や神話や文化慣習に疎い私たちには、その膨大な文献にいちいち当たってから絵を見ることなどは到底かなわない。そういう意味で、このようなハンドブックは小難しい美術論文の理解の前にまず有用である。

    本書の特徴としては、まずアトリビュートとシンボルの両方をまとめてあり内容が充実していること、次にカテゴリ別の構成とその概括的注釈により体系的な理解を促していること、最後にアトリビュートとシンボルとの違いを説明したうえで双方の関係や文脈的発展に言及していること、が挙げられる。
    花や動物や身体などさまざまな章でもって構成されているが、例えば、花を取り上げた章では、まず花の持つ意味合いやアトリビュートが語られ、その中の百合では聖母マリアのアトリビュート、純潔や処女性のシンボルとなり…、またこれらがこのようなものと結び付いて…、というような進行をとっている。
    ただ単に聖母マリアのアトリビュートが百合で、幼子イエスを抱き、青色のヴェールを装い…、という画中の決めごとに終始するのではなく、あくまでアトリビュートに焦点を絞り、それが持つ意味や文脈的発展を体系的に知ることができるようにつくられている。
    そのように理解できれば、ただ単に物語的な引用においてアトリビュートが発生している場合、あるいはそのアトリビュートやシンボルが歴史的に発展的に解釈された場合の違いを知ることができ、さらに同主題のヴァージョンの広がりや画家の個別的な主題理解に敏感になることにもつながり、絵画や主題により迫ることができるだろう。
    また、シンボルという要素も丁寧に扱われていて、そのアトリビュートが宗教性を捨象されシンボルとしてどのように絵画作品にブレークダウンされていったかを知ることで、近代以降の寓意画等における展開も興味をもって見られる。

    ハンドブックということで、内容は充実しているものの紙面等の都合、詳説やヴァリエーションは不足していることは致し方ない。
    導入以降は、自身で絵を見て、解説等を勉強していく他は近道はないが、絵画における解釈学へのアプローチにおいては本書は非常によくまとめられており、絵画を多面的に見ていくことの手助けになる。
    P.D.ジェイムズ追悼
    ちょっと前にミステリマガジンで追悼特集が出ていましたが、2014年11月にP.D.ジェイムズ女史が亡くなりました。黄金時代のセイヤーズと並び称される、重厚で緻密な描写で、娯楽性を超えた、文学、文芸性に踏み込む筆致により、推理小説のポジションを押し上げた功績はこれからも褪せることない評価になっていくでしょう。
    2作でかろうじてシリーズものとして扱われるコーデリア・グレイシリーズは1982年の『皮膚の下の頭蓋骨』からついぞ続刊は出ず、これはファン心理としては残念に思うところです。しかしながら、2作でも十分と思わせるほどの評価を得ているシリーズなので、やむなしですし、それこそリアリティを重んじる女史の態度からすれば続刊はなかったのでしょう。ダルグリッシュシリーズでは中盤からはケイト・ミスキンの登場により、女史の関心がダルグリッシュとケイトの関係に移っているので、ケイトがある種のヒロイン役となり、そこへ収斂されたともいえますね。
    ダルグリッシュシリーズは刊行が数年おきということで、高校時代に最新作の刊行に追いついてからは連続性をもって読んでいなかったので、これを機会にというわけでもないですが、シリーズとおして読み返したいところではあります。かなりのハードワークなので、まずはコーデリアシリーズから、になるでしょうか。

    一読者だった身として、このブログでも追悼の意を表し、さらに女史の作品が読み継がれていくことを望みます。

    コーデリア・シリーズレビュー
    10年も昔のレビューです…。
    『ジェイン・エア』
    『ジェイン・エア』
    シャーロット・ブロンテ
    河島弘美訳 2013年,岩波書店


    ブロンテ姉妹の長姉、シャーロット・ブロンテの長編小説です。
    ブロンテ姉妹というと、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』が有名ですが、このシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』も波乱の中を生き抜く女性像を描いた文学史上の傑作となっています。

    『ジェイン・エア』は同名の主人公が、子供から成人となった現在に至るまでを一人称でつづった自叙伝の形式をとっています。
    個人的な感想を手短にいうと、物語はジェインがフェアファックス家の家庭教師になる前後で大きな分かれがあると思いますが、その前段はとても楽しめました。孤独の身であるジェインが伯母の家に預けられ、寄宿学校に入り、そこで教師として自活していくまでのストーリーは、特有の強い意志によってジェインが周囲と格闘していく様を、回想ながら生き生きと描いています。これが、十代の子供の言動や考えなのかとうならされるほど、ジェインの意思と行動は混じりけや迷いがなく、一本気で易々と打ち負かされないのです。伯母の家や寄宿舎の世界でのジェインの視点や考えは(読者を含め)他を引きつけるものがあり、反発や対立も生みながらも、よき理解者も得て、ジェインは一人前の女性として育っていきます。
    続く、家庭教師編では、このような様相はガラリとかわり、家庭教師に入った家での、うら若き乙女のロマンス、という、ややありきたりで伝統的なストーリーテリングに収まっている印象です。ここから、紙面の大半をかけて壮大な愛の物語が紡がれていくわけですが、個人的には、寄宿学校時代のジェインの生き方や葛藤をもっと見たい気にもなりました。大団円に至る流れも、都合主義、神がかり的な要素を含んでおり、苦難続きで恵まれなかった少女時代とはやはり異なった様相です。
    このようにして物語の主軸は愛のロマンス方向へと切り替わりますが、ジェインが盲目的で依存的な生き方に転換するのではなく、(多少の揺れはあるものの)あくまでも10代前半の芯の強さを持って生活していく姿は変わらずに描かれています。このような場面は物語のスパイスとなっていて、単調なロマンスとは一線を画するところです。中流階級で、家庭教師という立場で、しかもか弱い女性であるにもかかわらず、状況や対面する相手の心理を鋭く把握する能力と、少女時分から変わらぬ固い意志と行動理念は、現代の視点で見てもインパクトがあり、自分で決断し、主体的に状況を切り開いていくことの正当性を強く訴えかけているようでもあります。
    最後に、このようなジェインの姿を描いた場面として、主人であるロチェスターから、道徳に多少そむく結果となっても、孤独の身であるジェインを気にするものなどいないのだから…、と迫られる場面を引用したいと思います。ロチェスターの激情的な説得に対しても、ジェインは流されることなく、自らの内の「道徳律」に従い、自らの進む道を貫きます。


    「このわたしが、自分のことを気にかけています。孤独であればあるほど、友人も支えも少なければ少ないほど、わたしは自分を大事にします。神さまが定め、人間が認めた法を守るつもりです。今と同じく自分が正気であったときに受け入れた道徳律を、これからも守ります。法も道徳も、誘惑がないときのためにあるのではなく、今のように肉体や魂が厳しさに対して反乱を起こすときのためにあるものです。それらは厳格で、神聖なものです。もし個々の都合で破っていいものなら、どこに価値があるのでしょうか? 価値はあるのだと、わたしはずっと信じてきました。もしそれを信じられないとしたら、それはわたしが正気でないからです。まったく正気でないから――血管が血を駆けめぐり、心臓が数えきれないほど速く、激しい鼓動を打っているからです。前から持っていた考え、以前からの決意が、今のわたしを支えるすべて――だから、そこにしっかり立つつもりです」

    現代であっても、空気を読む、顔色をうかがう、嫌われないように取り繕う、というようなことがまま求められる場面であって、ジェインのような立ち振る舞いをすることは困難でしょう。だからこそ、その好悪は別としても、彼女の芯の通った姿は、強く読者の日々の言動や価値判断に訴えるものがあると感じます。