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    『名画の謎を解き明かす アトリビュート・シンボル図鑑』
    平松洋著
    2015、KADOKAWA

    以前に、『名画で読み解くアトリビュート』(木村三郎著)という図像学の入門書を紹介したことがあったが、本著もその位置づけにある格好の手引きである。
    絵画を見る際には、第一義的にはアトリビュート(=持物、帰属物)そのものの知識は絵を楽しむという原体験において必要はない。しかしながら、描かれたものの理解、主題の解釈(客観的なもの、また画家自身の解釈)ということに踏み込もうとする際には、アトリビュートやシンボルの理解が欠かせない。
    とはいうものの、西洋の宗教や神話や文化慣習に疎い私たちには、その膨大な文献にいちいち当たってから絵を見ることなどは到底かなわない。そういう意味で、このようなハンドブックは小難しい美術論文の理解の前にまず有用である。

    本書の特徴としては、まずアトリビュートとシンボルの両方をまとめてあり内容が充実していること、次にカテゴリ別の構成とその概括的注釈により体系的な理解を促していること、最後にアトリビュートとシンボルとの違いを説明したうえで双方の関係や文脈的発展に言及していること、が挙げられる。
    花や動物や身体などさまざまな章でもって構成されているが、例えば、花を取り上げた章では、まず花の持つ意味合いやアトリビュートが語られ、その中の百合では聖母マリアのアトリビュート、純潔や処女性のシンボルとなり…、またこれらがこのようなものと結び付いて…、というような進行をとっている。
    ただ単に聖母マリアのアトリビュートが百合で、幼子イエスを抱き、青色のヴェールを装い…、という画中の決めごとに終始するのではなく、あくまでアトリビュートに焦点を絞り、それが持つ意味や文脈的発展を体系的に知ることができるようにつくられている。
    そのように理解できれば、ただ単に物語的な引用においてアトリビュートが発生している場合、あるいはそのアトリビュートやシンボルが歴史的に発展的に解釈された場合の違いを知ることができ、さらに同主題のヴァージョンの広がりや画家の個別的な主題理解に敏感になることにもつながり、絵画や主題により迫ることができるだろう。
    また、シンボルという要素も丁寧に扱われていて、そのアトリビュートが宗教性を捨象されシンボルとしてどのように絵画作品にブレークダウンされていったかを知ることで、近代以降の寓意画等における展開も興味をもって見られる。

    ハンドブックということで、内容は充実しているものの紙面等の都合、詳説やヴァリエーションは不足していることは致し方ない。
    導入以降は、自身で絵を見て、解説等を勉強していく他は近道はないが、絵画における解釈学へのアプローチにおいては本書は非常によくまとめられており、絵画を多面的に見ていくことの手助けになる。
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    P.D.ジェイムズ追悼
    ちょっと前にミステリマガジンで追悼特集が出ていましたが、2014年11月にP.D.ジェイムズ女史が亡くなりました。黄金時代のセイヤーズと並び称される、重厚で緻密な描写で、娯楽性を超えた、文学、文芸性に踏み込む筆致により、推理小説のポジションを押し上げた功績はこれからも褪せることない評価になっていくでしょう。
    2作でかろうじてシリーズものとして扱われるコーデリア・グレイシリーズは1982年の『皮膚の下の頭蓋骨』からついぞ続刊は出ず、これはファン心理としては残念に思うところです。しかしながら、2作でも十分と思わせるほどの評価を得ているシリーズなので、やむなしですし、それこそリアリティを重んじる女史の態度からすれば続刊はなかったのでしょう。ダルグリッシュシリーズでは中盤からはケイト・ミスキンの登場により、女史の関心がダルグリッシュとケイトの関係に移っているので、ケイトがある種のヒロイン役となり、そこへ収斂されたともいえますね。
    ダルグリッシュシリーズは刊行が数年おきということで、高校時代に最新作の刊行に追いついてからは連続性をもって読んでいなかったので、これを機会にというわけでもないですが、シリーズとおして読み返したいところではあります。かなりのハードワークなので、まずはコーデリアシリーズから、になるでしょうか。

    一読者だった身として、このブログでも追悼の意を表し、さらに女史の作品が読み継がれていくことを望みます。

    コーデリア・シリーズレビュー
    10年も昔のレビューです…。
    『ジェイン・エア』
    『ジェイン・エア』
    シャーロット・ブロンテ
    河島弘美訳 2013年,岩波書店


    ブロンテ姉妹の長姉、シャーロット・ブロンテの長編小説です。
    ブロンテ姉妹というと、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』が有名ですが、このシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』も波乱の中を生き抜く女性像を描いた文学史上の傑作となっています。

    『ジェイン・エア』は同名の主人公が、子供から成人となった現在に至るまでを一人称でつづった自叙伝の形式をとっています。
    個人的な感想を手短にいうと、物語はジェインがフェアファックス家の家庭教師になる前後で大きな分かれがあると思いますが、その前段はとても楽しめました。孤独の身であるジェインが伯母の家に預けられ、寄宿学校に入り、そこで教師として自活していくまでのストーリーは、特有の強い意志によってジェインが周囲と格闘していく様を、回想ながら生き生きと描いています。これが、十代の子供の言動や考えなのかとうならされるほど、ジェインの意思と行動は混じりけや迷いがなく、一本気で易々と打ち負かされないのです。伯母の家や寄宿舎の世界でのジェインの視点や考えは(読者を含め)他を引きつけるものがあり、反発や対立も生みながらも、よき理解者も得て、ジェインは一人前の女性として育っていきます。
    続く、家庭教師編では、このような様相はガラリとかわり、家庭教師に入った家での、うら若き乙女のロマンス、という、ややありきたりで伝統的なストーリーテリングに収まっている印象です。ここから、紙面の大半をかけて壮大な愛の物語が紡がれていくわけですが、個人的には、寄宿学校時代のジェインの生き方や葛藤をもっと見たい気にもなりました。大団円に至る流れも、都合主義、神がかり的な要素を含んでおり、苦難続きで恵まれなかった少女時代とはやはり異なった様相です。
    このようにして物語の主軸は愛のロマンス方向へと切り替わりますが、ジェインが盲目的で依存的な生き方に転換するのではなく、(多少の揺れはあるものの)あくまでも10代前半の芯の強さを持って生活していく姿は変わらずに描かれています。このような場面は物語のスパイスとなっていて、単調なロマンスとは一線を画するところです。中流階級で、家庭教師という立場で、しかもか弱い女性であるにもかかわらず、状況や対面する相手の心理を鋭く把握する能力と、少女時分から変わらぬ固い意志と行動理念は、現代の視点で見てもインパクトがあり、自分で決断し、主体的に状況を切り開いていくことの正当性を強く訴えかけているようでもあります。
    最後に、このようなジェインの姿を描いた場面として、主人であるロチェスターから、道徳に多少そむく結果となっても、孤独の身であるジェインを気にするものなどいないのだから…、と迫られる場面を引用したいと思います。ロチェスターの激情的な説得に対しても、ジェインは流されることなく、自らの内の「道徳律」に従い、自らの進む道を貫きます。


    「このわたしが、自分のことを気にかけています。孤独であればあるほど、友人も支えも少なければ少ないほど、わたしは自分を大事にします。神さまが定め、人間が認めた法を守るつもりです。今と同じく自分が正気であったときに受け入れた道徳律を、これからも守ります。法も道徳も、誘惑がないときのためにあるのではなく、今のように肉体や魂が厳しさに対して反乱を起こすときのためにあるものです。それらは厳格で、神聖なものです。もし個々の都合で破っていいものなら、どこに価値があるのでしょうか? 価値はあるのだと、わたしはずっと信じてきました。もしそれを信じられないとしたら、それはわたしが正気でないからです。まったく正気でないから――血管が血を駆けめぐり、心臓が数えきれないほど速く、激しい鼓動を打っているからです。前から持っていた考え、以前からの決意が、今のわたしを支えるすべて――だから、そこにしっかり立つつもりです」

    現代であっても、空気を読む、顔色をうかがう、嫌われないように取り繕う、というようなことがまま求められる場面であって、ジェインのような立ち振る舞いをすることは困難でしょう。だからこそ、その好悪は別としても、彼女の芯の通った姿は、強く読者の日々の言動や価値判断に訴えるものがあると感じます。
    『交換の社会学』
    『交換の社会学 G・C・ホーマンズの社会行動論』
    橋本茂
    世界思想社,2005

    社会的交換理論で知られる社会学者ホーマンズの理論解説書です。
    一般に流通する、日本語で読める唯一の解説書になっています。
    ということで、ホーマンズ理論に加え、社会交換理論を知るための概論としても貴重かと思います。
    ここら辺の事情はちょっと残念ですが、仕方ありません。

    本書は、だいたい、主著『社会行動』をなぞる構成となっており、社会交換理論の依拠する基本姿勢や枠組みを知ることができます。
    社会交換という視座は、かなりミクロ的というか、個人意識準拠の方法論的個人主義の要素が強いので、大きな社会学とは一線を画しています。
    一見すると、あまり社会学的ではない、ともいえるかと思います。それなので、正統的な社会学的見地からは、誤解や軽視が生まれやすいのかも知れません。
    まずホーマンズ社会学に向き合うには、ホーマンズが小集団を分析の基礎的な対象として捉え、その秩序化(安定化)の問題を扱ったということ、小集団に属するメンバーが持つ判断軸を主に心理学から適用していることに注意する必要があるでしょう。

    たとえば、マクロ的社会変動論が意味をなさないというわけでも、小集団理論のみでそれが説明可能であるともいっているわけではないのです。
    あくまで、権力、服従、同調、統合・結合、相互行為、攻撃、排斥、解散などなどの社会学的分析に値する行為は、個人個人がやりとりを行う小集団において発達するのであり、それらは社会的交換の視座で説明可能ということを提示しているのです。
    個人的には、小集団も社会的規範や道徳秩序にかなりの部分依存して構成されているので、ホーマンズ的な視座がマクロ的な要素を排除しているとは考えません。方法論の問題として分析概念の整理をしていくべきだと感じます。

    本書は、ホーマンズ社会学の社会学史的経緯、位置づけを概論する小論も収録されており、ホーマンズのたどった軌跡や理論的変遷を詳しく知ることもできます。
    やはり、先読みになろうが後読みになろうが邦訳文献あってこその解説書なので、絶版本が復刊されるなど、ホーマンズの著書にアクセスできる環境が整うといいなと感じます。

    モーパッサン「女の一生」
    『女の一生』モーパッサン
    永田千奈訳、光文社

    邦訳は『女の一生』となっているが、原題は「UNE VIE」であり、巻末の作品解説でも指摘されている通り、タイトルには女とも主人公ジャンヌともうたわれていなく、「VIE(人生、生活、命)」は特定のものとは結び付けられていない。
    これは、客観的に、人間の社会にありうるひとつのVIEを描いている、ということだと思う。
    舞台は、田舎の貴族の家庭、地域社会ではあるが、ジャンヌの感情や、物語のなかで起こる事件は他の場所でも描かれてきたものだし、それは現代においも理解に困難はない。
    人生は楽しいことばかりではないが、悪いことばかりでもない、という常套句が作中、印象深くリフレインされるが、確かに悲劇的な事件がジャンヌの希望を繰り返し打ち砕いていくものの、その都度新たな期待や展望も彼女に開けている。
    この点は、前回とりあげたチェーホフの「ワーニャ伯父さん」に通ずるものが感じられる。
    悲劇によるVIEの終了、あるいは大団円を許さず、絶望的状況に落とされても、現実を一応のところ甘受しVIEを継続していく、またそうせざるを得ない――これはこれでリアリティを持ったVIEの在り方であり、「女(ジャンヌ)の一生」も結末が物語られることはなく続いていく。

    この物語は、道徳や社会科学的に見ても鋭く秀逸な描写・構成をしており、興味を引く。
    ジャンヌは父親の意向で、12歳から17歳まで修道院に預けられる。このようにして育ったジャンヌは、教会の道徳を内面化しており、外界の生生しい問題とは切り離されている。
    ジャンヌは修道院生活を終え、幸せな結婚や人生に夢を膨らませ、子爵のジュリアンと結ばれ自分の人生をスタートさせるわけだが、夫ジュリアンの態度や考え方になじめず、あげくのはては女中との姦通という形で裏切られてしまう。子供ころから夢見てきた生活は破たんし、積み重ねてきた期待や希望は残酷にも崩れ去ってしまう。
    夫の裏切りだけでは終わらず、尊敬をしていた伯爵夫人の裏切り(夫との浮気)にもあい、ジャンヌは以下のような感情を抱く。

    女友だちとして信頼していた伯爵夫人の二重の裏切りが許せなかった。彼女さえこうなのだから、この世のなか、誰かもが不実で、嘘つきで、信用できない存在なのだ。そう思うと涙がこぼれてきた。

    ここでジャンヌが「許せない」のは、単に夫を奪われたからではない。

    ジャンヌがジルベルト伯爵夫人を許せないのは、自分の夫を奪ったからではない。友と信じた彼女が、そうした汚い世界に身を窶したのが許せないのだ。動物的な本能に支配されている野卑な人間がいる。だが伯爵夫人は、こうした人たちとは生まれながらにして違っていたはずだ。それなのに、彼女はどうして粗野な者たちと同じような世界に身を落としてしまったのか。

    自分の価値観のある世界の人間であると思っていた人間が実は「汚い世界」の人間であると知る。そして、それまでの期待、信頼、敬意、共感が誤ったものであると突きつけられる。こうして、周囲との断絶を味わい、孤立を感じる。このような体験と心理がまざまざと描写され、ジャンヌの心に刻まれる傷と諦観は読者の追体験を促すかのようにリアリティを持っている。

    夫や友人の裏切りを乗り越え、ジャンヌは息子と両親だけを愛して生きていこうと決心する。しかしながら、心通う母親でさえも、夫や伯爵夫人の側の人間であったと知り、愛をそそぎこんで育てた息子も「不実で、嘘つきで、信用できない存在」に育ち彼女のもとを離れて行ってしまう。
    物語の後半は唯一の人生の拠り所となった息子を愛し、また取り戻すジャンヌの懸命な姿が描かれるが、ここでもそれらが不首尾に終わり、ジャンヌは生気を失ったかのようにもぬけの殻となりふさぎこんでいく。

    ジャンヌの心情の吐露は、現代社会にも通ずる、コミュニケーション成立可能性、役割期待の付与、他者認識/肯定のもろさなどを突いている。
    教育程度が発達し、都市型文化によって均質化が進んだ現代でも、自己の価値観に沿った役割期待を他者が応えてくれることはまれであり、満足にコミュニケーションすることは意外に難しい、さらに、ある集団や共同体のなかでの自己の価値観の孤立を味あわされるということは程度の差はあれ、多くのものが体験していることかもしれない。そのときに、折り合い、諦め、調停、逃避、説得などの手段がとられていくのであり、ジャンヌの姿はいささか悲劇的、皮肉的ではあるがひとつの型の適応過程として見える。
    ジャンヌは、ある極端な場面での悲劇のヒロインでも、安全な立場から嘲笑できる哀れな未亡人でもないのである。挫折や諦めを経験しながらも、それでも自己の価値観やアイデンティティを保ち、生き抜いていくジャンヌの姿がとても印象に残る。