芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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    囚人のジレンマの現実社会における蓋然性について
    囚人のジレンマの社会的に起こり得る蓋然性について考えてみる。

    囚人のジレンマについてはここでは詳しい説明は省くが、二人の囚人がともに黙秘を貫けば二人の刑期が最小になる(社会的な全体効用が最大になる)ものの、相手の出し抜き、裏切り戦略により、そのようにはならない(裏切りに収斂する=ナッシュ均衡)というジレンマである。
    社会学的にも扱われるが、ゲーム理論等の方面で研究されているものである。
    囚人のジレンマは思考モデルであって、現実において純粋な形式で観察するのが難しい。以下では、蓋然性を測るための現実社会における不確実性、困難性について若干の整理をしたい。
    これによって、ジレンマが社会的構造としてなかなか立ち現れないことが分かるし、またジレンマの解決/回避可能性の議論の一助にもなる。


    (1)コミュニケーション可能性の問題。完全情報なのか不完全情報なのか。
    囚人同士のコミュニケーションは断絶しているものとして扱われるが、現実社会では、囚人=成員同士のコミュニケーションは可能である場合が多い。また、第三者としての調停者、仲裁者もいるかもしれない。
    さらに、状況によって完全情報下にいるのかそうではないのかも違ってくる。

    (2)社会行為は繰り返しが前提となる。行為の再帰性について。
    複雑で面倒な説明を省こう。端的に言えば、囚人同士で一方が裏切った場合、もう一方の出所後の「お礼参り」は怖くないのか?という観点である。
    二次的接触の多い現代社会といっても、その場一回きりの社会行為を抜き出すのはそれほど簡単ではないし、そのような場面でジレンマ的葛藤が生じるとも考えにくい。
    一般に、行為の繰り返しが信頼(非契約的要素)を生むだろうし、またそれまでの行為が次の行為に再帰的に作用するだろう。

    (3)非合理性、心理学的問題。認知的一貫性。
    相手に裏切られたら、合理的な推論に基づき次の一手が協調的行為をとるべきだとしても、その選択はなかなかとりづらい。

    (4)効用(価値)の代替可能性や多様性。
    囚人のジレンマでは、刑期という数的指標により明確な効用の測定が可能であった。しかし、社会ではそのような明確な尺度は生じにくい。金銭もそのような単一的で絶対的な尺度にはなりえない。
    例えば、アイデンティティとして自己犠牲を良しとしたり、社会的公正を貫くことで得た社会的栄誉で効用を得たりすることも十分にあり得るだろう。

    (5)道徳規範。社会状況規範。
    上の議論とも重なる部分も出てくるが、裏切りや騙しがチェスの次の一手と同じような感覚で取りうる選択肢なのか。
    それが社会の道徳規範と相いれない場合、本意ではないにせよ行為者に協調的行動をとらせるかもしれないし、あえて裏切った場合相応の社会的コストと心理的コストを払うということを行為者に突き付けることにもなるだろう。
    また、そのような不定量のコストと「現ナマ」との比較考量というやっかいな問題もある。

    (6)厳密で計算づくの非感情的なプレイヤーの存在。フリーライダー。
    これまでの議論のなかでさまざまな社会的要素による蓋然性の低減を見てきたが、ここから漏れる要素として、それらを無効化しうるプレイヤーの存在を挙げなければなるまい。社会問題としては、フリーライダー問題としてピックアップされたりしている。
    囚人のジレンマのゲームでは、相手の選択に関わらず裏切り行為を続けるというナッシュ均衡に落ち着くが、現実にこの選択肢を取り続けられるものが、交渉の余地のないフリーライダーということになるだろう。
    フリーライダーは①社会化から逸脱した存在であるか、あるいは、言い方は悪いが②高度に社会化された環境にふんぞり返って泰然自若とするルールマスター(真のマスターではないが、ルールに裏打ちされた脱法の高みにいる!)である可能性がある。
    取りうる対策としては、抽象的ではあるが、①社会化の徹底、②ルールの再構築(社会システムや基礎集団の組み直し)、という方向になるだろう。
    ここでは、フリーライダーを単純に社会悪と決めつけずに包括的な議論が必要になってくるだろう。
    全体主義や社会主義との問題、個人主義など価値の多様性、などのレベルでの検討もなされるべきである。


    以上、囚人のジレンマの蓋然性についていくつかの観点でみてきたが、このジレンマが社会的に顕在化しているとすると、それはその社会の非統合状態や解体を示唆するものになる。
    特に日本では、世代間や経済的な格差において、ジレンマ状態に陥る可能性があると考えられよう。
    社会的効用の失われたナッシュ均衡という冷徹な合理的状態に陥らないためには、非合理的、非契約的な要素が相応に必要であり、それはまずもって社会化の結果生まれるものである。
    そういう意味では、フリーライダーは社会的に構成されるが、やがてその社会を食い潰してしまう契機にもなり、それ自体として生きながらえないという宿命も負っている。
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    ホーマンズの社会交換理論
    ジョージ・キャスパー・ホーマンズ(1910-1989)は、社会交換理論で知られるアメリカの社会学者です。学生時代は英米文学を専攻していたものの、就職が上手くいかず、ホーソン実験で知られるメーヨー、レスリスバーガーらのゼミに参加することになり社会学の道を志すこととなったという、異色の経歴を持った人物でもあります。

    ホーマンズの社会学理論は、小集団やそこで交わされる相互作用を研究対象とした社会心理学の分野にカテゴリできますが、心理学実験に依拠する割合が大きい点では、その中でもさらに心理学寄りだと感じます。彼自身、デュルケムが心理学からは社会学理論は導けないとした主張に対抗して、自らを「心理学的還元主義者」と自認していることからもうかがえます。

    ホーマンズの理論の中身を知って、実際に著作を読んだのが最近であり(といっても全て絶版になっていて、読めたのは今のところ主著『社会行動』のみ)、大学を卒業してから今までホーマンズ理論をリファーしてこなかったわけなのですが、社会交換理論の視座は相互作用とその構造化(安定化)を見るうえでは欠かせないものであると考えます。個人的には、リファーするのが遅くなってしまったのは残念な感じもします。
    ホーマンズの受容・評価に関してですが、学部レヴェルの授業では(少なくとも自分が在籍した学部、時代においては)あまり取り上げられないようですし、社会学の教科書、導入書などでも扱われることは少ないといえると思います。ということで、二次文献・研究書もめぼしいものが少ないのも残念であり、不可解な印象すら受けます。
    この点は、おそらく、ホーマンズにしろ、同じく社会交換理論を発展させたピーター・ブラウにしろ、社会交換理論をさらに掘り下げた研究成果を残していないことが大きいのかなと想像しますが。

    社会交換理論は、二者間の社会関係性を「交換」、つまり報酬や罰(マイナスの報酬)のやり取りとして定式化する視座です。社会関係は、心理学的な基本命題あるいは社会的規範等によって基礎づけられて、何らかの報酬の交換を通して構築されることを示しており、社会関係の程度もその報酬の質量等によって規定されてくるとするものです。
    この理論の特徴は、いくつかの社会心理学、心理学上の命題を前提とすることにより、相互作用や社会関係の発達あるいは解消の過程を合理的、即物的に描くことができるという点だと思います。ホーマンズが掲げる命題は、社会心理学において、広く受け入れられているものであり、成功命題(ある行為は報酬を受けるほど反復される)、価値命題(行為結果に価値があるほどその行為が行われる)等が並べられています。このような人間に広く妥当する行為性向によって社会関係を読み解くことにより、極めて統一的に個人や集団内関係を把握できるのです。集団内の構成員の関係・相互是認の程度を点数化してマトリックスにてモデルとして示していることにもそれは顕著にあらわれています。
    また、ホーマンズは、このブログでも以前扱ったフリッツ・ハイダーのバランス理論にも言及しており、この理論も交換理論の視座のもとに理解されることを説明しています。

    さて、社会交換理論は、社会関係の生起と構造化(安定化)を扱っていますが、一つの大きなイシューは何が交換されるのか、ということです。いいかえれば、何が報酬として扱われるのか、ということです。
    もっとも基本的で重要なものは、社会的是認です。現代社会においては、この社会的是認がより希少財となっている点、さらに、社会的是認を交換できうるコミュニケーションが発達している点で、社会的是認のやり取り、行き来を見る交換理論は鋭く関係性や行為の分析を行えるものになっていると考えます。社会的是認の交換、自己承認や他者承認に焦点を絞って、複雑化、多面化する現代のコミュニケーションを見ることで、その特殊性をひも解く足掛かりにすることができると思います。SNSの発達や、傷つけ合いの回避を第一に目指す「優しい関係」などなど論点はたくさんありますが、この点は、あとの考察に譲ります。
    実際的なコミュニケーション論
    人間の社会でのコミュニケーション、関係構築は、つまるところ、特定の社会状況も考慮したとしても、そこに存在する人間に理解可能なかたちで自己呈示するということに尽きると思います。
    ここでいう理解可能性は、個人が高度なかたちで社会化され、その内容を体現できること、加えて、いわゆる人間味や原的コミュニケーション(感情や身体的表現)を感じ取り適切に呈示できること、この2つのカテゴリに整理できると思います。この2つは、社会(心理)学的な要素と行動学・生物学的な要素に対応していますが、両者は独立に作用するものではなく密接に関わっています(親愛表現等の人間味の表現はなくてはならないのですが最終的には社会化面の統制を受けなくてはならないはずです)。

    これらを上手く操作することで、ある社会的場面において、他者を理解し、理解されるという経験が促進されます。ここにおいて重要な点は、「他者を理解する」という主観的な意識だけでは不十分であり、「どのように他者に理解されるか」という印象管理が大きな幅を占めるということです。
    よって、コミュニケーション強者は、少数の分かる人には分かるようなサインを送るのではなく、自分の身体をアイコン化して、だれでも理解可能なかたちでもって自己呈示をすることになります。
    理解可能な幅を多く呈示できるほど、他者との接近・相互行為が図られる、ということであり、広く普く受容されうる自己像を呈示できるという点では、社会化の結晶化というべき高度な技術の発露が見てとれます。

    ここで描いたコミュニケーション強者は、いうまでもなく人間社会を生活する上で非常に高いパワーを持っています。広範なネットワークを持っていて、情報収集力も半端ないわけですし、利用可能な資源を潜在的にでも多く保有しており、相当強力で多くのBATNA(Best Alternative To Negotiated Agreement;その交渉が失敗した場合の次善策)を保持してます。それなので、社会生活上、オールオアナッシングな交渉、独力で活路を見出すような選択をすることからはフリーです。彼の持つ、情報や資源の豊かさ・広範さはさらにコミュニケーションを発達させる正の循環力も持っています。彼の追従者も現れるはずですし、強者同士のコミューンも形成されることでしょう。…向かうところ敵なし、という感じですね(なおかつ資金力もあれば経済社会での成功も…)。

    このように強者になることは、素晴らしい恩恵が享受でき、強力なアイデンティティ構築ができるものなのですが、現代社会ではこんなふうな典型になれる個人はごく少数と思われます。
    高度に社会化されている必要があること、コミュニケーションに膨大な労力を要すること、自己認識・アイデンティティと乖離する可能性、時間の制約、コミュニケーションの性質の変化、上下からのルサンチマンの処理、などなどクリアすべき条件が多すぎるのです。
    特にこの中でも、現代社会におけるコミュニケーションの性質の変化は重要な要素です。ここで論じていると相当長くなってしまうので割愛しますが、ネットを中心としたコミュニケーションへの移行、これに付随する他者との結びつき(認識)の変化などは、上で描いたよう関係形成とは違った様相を見せています。またこれと関係して、さまざまな社会的機能(コミュニケーションそのものも)が外部化されている、というのも大きいです。経済的な力さえあれば、人的なネットワークと同等かそれ以上のBATNAを保有していることを意味するわけですから。

    話が大分広がってしまいましたが、ここでいったことは、人間社会で生きている以上、人間の理解可能なコードを最大限活用できるものがよりベネフィットを得られる、という至極明快なことです。
    併せて、そのコードの理解・体得は、生得的に可能であるものではなく、社会化がキイとなっているということです。
    そして、上で少し列挙したように無数の関数を考慮して、自己呈示していかなくてはならないわけなので、諸個人が彼らなりに与えられた社会状況で限定的にコミュニケーションしている、ということもひとつの興味深い事実であると思います。誰もがコミュニケーションの最大化を図らないという事実がある以上、コミュニケーションとそこから得られる関係は、自己承認の他、必要量以上はコストとしてもとらえなくてはならないということだと思います。
    ある個人におけるアイデンティティ形成・保持におけるコミュニケーションの立ち位置や必要となる質・量は、また別の項で考察できたらと思います。
    限定された合理性
    ハーバート・サイモンの理論に「限定された合理性」というものがあるみたいですね。
    かみくだくと、ホモ・エコノミクス的な観点で合理性を最大化しようとしても、それを行うフィールドがリアルな人間社会である以上、合理化に適応できない/ついていけない部分があるから、結果して限定された合理性しか達成できない、ということでしょうか。
    つまるところ、十分な効用が得られるレヴェルの合理化というのは、合理性の徹底化ではなく、ある程度の合理性が担保された「満足化」になる(ならざるをえない)ということとされます。

    図式化すれば、社会学や社会心理学あるいは人間行動学で描かれる人間の非合理的な側面を、経営の諸理論に織り合わせたものと簡単にいえるのでしょうが、経営や組織についての理論の中に早くから人間性・社会性に着目したものが確立されいたというのが興味深く、取り上げてみました。

    実社会の合理化というのは、計量的ないくつかの関数によってなりたっているのではなく、人間の持つ非合理的な要素も関数になってくるから、それらをひっくるめた最大化が「満足化」になるってことで、その不確定な要素を扱う社会科学もいってみれば実学である、とまとめることもできます。
    家政
    経済的合理性にもとづいて、ほんの少しでも多く儲ける術が集団においても個人においても実践されている。金を集めるとなると、恐るべき知略が用いられ、徹底的に資本主義のテーゼが遂行される。
    それでは反対に、いざその金をつかうという段はどうなっているのか。少なくとも、そこその企業においては、コストダウン・原価低減が同様に進められているはずである。いうまでもなく、そうではない企業集団や、そうなっていない領域は依然として存在するが。それでは問題をうつし、個人のレヴェルに焦点をあてると、あれだけ徹底化されていた経済的合理性の精神がかげを隠してしまわないだろうか。個別的な事例はここで語るまでもなく各人に経験されていると思う。資本主義社会において、原理的にいえば、個人が金を稼ぐ・使う場面はどちらとも資本主義の精神が働くべきである。しかし、労働に見合わない投資がはばをきかせていることは周知である。
    公式的にいうと、2者関係でのやりとりにおいて貨幣が媒介するということは、そこで等価交換がなされているとみなされなければならない。それが客観的に、計量的に、一般的に示されないとすれば、なんらかの社会的要素がその交換を操っていることになる。たとえばウォーラステインなどが資本主義に対してクリティカルでありシニカルな批判をしているが、なぜに日常でそのように反省的に捉えられることが少ないかというと、各人が労働の段階でも、そして消費の段階でも、不等価な交換原理に捕捉されていると同時に、社会的に呼応しているからであろう。ゆえに、その社会的な側面をうまく論理道具として利用して、日々の「不等価交換」を「等価交換」であると、事なかれ主義的に押し通すことも可能となるのである。交換・分配の「不正」は道徳論的(哲学的)にも、社会学的・心理学的にも扱わなければ理解・記述できないと思われる。
    交換、消費行動は、徹底化された利潤最大化の合理的意思に加えて、それとは異なった社会的、個人的な意思が介在する。消費行動に、ナンセンスやグロテスクさが表象されるのも、その結果の一部を垣間見せるものである。もちろん、資本家・有産階級サイドの大きなパワーは前提とされるものではあるが、個々人の呼応行為も看過するべきではない。貨幣には、個人の意思の表現、エモ―ショナルなものの発現として機能する場合が多々ある。個人に準拠すれば、貨幣の使用ではそれが十分に見てとれる一方、平準化された労働のなかではなかなか姿を認めることは難しい。関連して言えば、消費行動とは対の立場にある、私家的な節約術が、本来的な目的を脱したところにいることを見つけることがままあることも一つの証例になろう。
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