芸術、書籍、音楽などのレヴュー。あるいは随筆。 - Revue de l'art, le livre, la musique etc, ou essai.
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    プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光 国立西洋美術館
    ベラスケスのもっとも重要かつ充実したコレクションを有するプラド美術館展とのことで、副題のとおり、ベラスケス7点が核となっています。
    また、ベラスケス以外にも、リベーラ、スルバランらのスペイン絵画、ルーベンスらフランドル絵画もクオリティの高い作品が集結しており、プラドのコレクションの充実度がうかがえます。さらに、これら絵画も、小品でかさ増しされている感がなく、大作ばかりで非常に現場での見ごたえのある企画展になっていました。

    スルバランは、ヘラクレスの12の偉業のシリーズが特に興味深かったです。
    「ヘラクレスとレルネのヒュドラ」「ヘラクレスとクレタの牡牛」の2点が来ていました。
    ヒュドラの方は、狭い洞窟に籠った、大して害もなさそうなヒュドラを叩き潰そうとしている感じが面白いです。19世紀の作例、モローの同名作品などと比較しても対照が浮き立ちます。
    男性の肉体表現に関心のいった作品で、スルバランの幅を見られる作例と思います。
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    ヌード 横浜美術館
    2016年からの国際巡回展で、英国テートのコレクションから構成されています。
    古典的主題であるヌードについて、19世紀以降の展開を探る内容となっています。

    近代以前は、裸体表現は解剖学的な裏付けを持ちながら、まずデッサン、人体表現の基礎として位置づけられていた面がありますが、現代にいたるとそういったアカデミックな面や女性美の表現といった意味合いが薄まり、コンセプチュアルな、あるいはメタ表現的な展開を見せます。そして、やはり性役割、ジェンダー等の社会学的なものや政治的なものへの関係、既存の社会的・文化的文脈との関係(たとえば猥褻性との関連)で問題をはらむものとして扱われてきたといえます。
    今展も後半部分はそのような展示が多く、挑戦的、意欲的といえる構成になっていました。これも近現代美術の殿堂たるテートのなせる内容と思いました。

    個人的な興味としては、そのようなコンセプチュアルなものではないので、(テート・ブリテンの)ビクトリア朝絵画を鑑賞する目的で訪問しました。
    全体に対する構成割合は低いものの、レイトン「プシュケの水浴」、ミレイ「遍歴の騎士」、ドレイパー「イカロス哀悼」など第一級の作品が来ていました。
    ドレイパーは、これまで怖い絵展で作品を見たくらいですが、本作は大画面で大変迫力がある作品と感じます。質感表現や物寂しい色調などそういうところも見どころかと思いました。
    テート・ブリテンのビクトリア朝絵画展示室は同館では最大規模のギャラリーといえど絞られているので、今回は前年に行った時には見られなかった作品を鑑賞できる機会となりました。

    展覧会の目玉はロダンの巨大大理石像の「接吻」です。
    男女の対照的な表現や人物構成のダイナミックさが際立ちます。
    屋外のブロンズならまだしも、このような大理石彫刻は見る機会はそうそうないので(自分の興味に照らしても)、単純に圧倒され、心動かされました。
    そのほかの絵画では、デルヴォーが光っていました。

    チェーホフ 『箱に入った男』
    アントン P.チェーホフ
    中村喜和訳
    未知谷、2008

    物語中ベリコフという名の男のことである「箱に入った男」は、杓子定規で型にはまり、不寛容な人物として描かれているが、もっと抽象的に、そのような行動・思考様式、社会的な空気感のように象徴化されているようである。
    ただの社会悪ということではなく、人々の生活が無意識的に、あるいは不可避的に箱にとらわれている、とらわれざるを得ない側面も指摘されているところも興味深い。

    「私たちは町で狭苦しいところに暮らし、要りもしない書類をつくり、トランプ遊びをしています。これも箱ではありませんか。一生を怠け者や訴訟狂いや愚か者や引きずり女たちのあいだで過ごし、さまざまな空疎なことをしゃべったり聞いたりしています。これも箱ではありませんか」

    ベリコフは死んで、人々は自由を手に入れたかに思えたが結局はそのような生活や空気感は変わらなかった。
    このことは上記のことがらを強く印象付けている。
    物語の最後は以下のような、はっとする発言が挿し込まれている。

    「他人が嘘をつくのを見たり聞いたりしながら」
    「その嘘に目をつむっている者を、世間では馬鹿者と呼びます。侮辱やさげすみを我慢したり、自分は誠実で自由な人間の側に立っていると公言できなかったり、自分自身が嘘をつき、へらへら笑っているのも、ただ一かけらのパンのため、暖かいねぐらのため、三文の価値もない官位のためなんです。いや、もうこんな暮らしはたくさんです」

    (コミュニケーション弱者でもできる)客観的記述・観察のしうる他者の評価/判断項目
    久しぶりにかなり俗的な内容を検討する。
    自分を棚に上げて、つまり自分の思考・行動や価値などとは別に、観察された行為の回数を数えたり、言動や状況を記述したりする方法で、他者を手っ取り早く「判断」するには。
    どのような目的で、判断・評価するのかなどは深くは言及しないが、もちろん、心根が芯から素晴らしい人間を探したりするものではない。
    以下に掲げる3項目は、場に付された裏返しのカードをすべてめくってみることができない、限られた数枚のカードしか見る能力も機会もない、コミュニケーション弱者がコスト/リスクをなるべく負わずに、円滑に社会生活を送るうえでのもっとも基礎的な対人スクリーニングするための項目として見てよいものと考える。

    ■挨拶や感謝の外的表示行為
    社会化や集団への順応の程度が測れる。

    ■人格や能力に対する評価や認証
    主に対等な立場以下の他人の人格、能力を認めることができるか。あからさまな選別による態度変化がないか。
    ここで挙げる3項目では一番ニュートラルな観察が難しいものかもしれない。
    第一の項目に符合し、他者の即物的な利用をする人物、自尊心の高すぎる人物などが排除される(だいたい否定から入るタイプなどはこのような人物)。

    ■関係性にきちんとコストをかけるか
    謝意や他者への評価のもっとも客観的、明示的な行動。
    コストのかけ方はいろいろあるが、一番客観的かつ測定・比較可能なのは金銭的なものである。資力にまかせておごりまくればいい、吝嗇や過度な節約はダメだ、ということではもちろんない。
    友人、同僚、上司/部下等々、それぞれの関係性や状況に応じたコストのかけ方(いわゆる気前の良さ)やその処理のスムースさがあるかどうかを基準にすればよい。


    家柄が良い、学(校)歴が高い人物は性格が悪い論というのは社会学的にもあまり妥当しないだろう。彼らがあからさまな情実をもちいた対応で集団の輪を乱したり、少額の金をケチって関係を冷え込まさせたりするだろうか。彼らはその必要のない場で自尊心を満たすこと、対人関係で数百円を節約することで失うものを分かっており、差し引き得をしないという計算ができる。というのは、他者の評価・価値や集団内の関係性をマネージできるほどに、社会化されており、能力や(それに基づく)資力があるからである。
    もちろん、集団においては適切な行動様式、ふるまいというものの程度が異なり、評価される人物はまちまちである。上記3項目をすべて満たせば即交際、親交に値する人間だということ(逆に一つでも満たさないので縁を切るべきだということ)ではないことは繰り返しいっておきたいが、コミュニケーション弱者がリスク管理をする上での指標にはなる(コミュニケーション強者についていえば、経験値で一瞬で自己にとって正確な対人評価をしているだろうが)。
    ボストン美術館 パリジェンヌ展 世田谷美術館
    世田谷美術館に行くのは2005年の「ゲント美術館名品展」以来なので、十年以上振りです。
    前回の記憶がないのですが、アクセスしづらいですね。

    18世紀以降のパリの女性の生活、風俗等にフォーカスした展覧会です。
    名古屋、東京、広島と巡回します。

    本展では、妻、母親、労働者、社交界で活躍する女性…とさまざまな役割、視点からの作品、資料が並び、その時々の歴史や場面においてパリジェンヌがどのように生き、またどのような姿でとらえられていたかを比較しながら見ることができます。
    19-20世紀においては、流行を発信する自律した女性のイメージがありますが、社交界で活躍したり、流行を着飾り文化を発信したりする役割もパリジェンヌならではでしょう。貴族、プチブル、芸術家、女優など文化をリードしたパリジェンヌを数えていっても、同時代で比較して群を抜いています。このような文化が長くに渡り、ヨーロッパ各国、またアメリカに及ぼした影響は大きいです。

    絵画では、ヴィンターハルターやサージェントらの肖像画、マネの「街の歌い手」などがあります。マネは依然にも日本にも来ました(三菱一号館)。
    トマ・クチュールもありました(こちらも以前見たような気が)。
    版画、写真、ポスター、テキスタイル等々、いろいろな形式の作品があるので、油彩はそこまで多くはないですが、秀作が多くそろっていたと思います。

    この展覧会で示されたパリジェンヌの姿は無数にあるうちのいくつかです。パリジェンヌやその文化の多様性を理解する手がかりとなる企画展といえます。
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